地域での明智光秀縁の城の守り方、天空の城竹田城に匹敵する周山城の今後のあり方
全国には戦国時代から存在した城が数多くありますが、明治になった際に廃城令によって、そのほとんどは現存していた天守閣といった建物は潰され、町の区画整理により堀や石垣は姿を消しました。
しかし、城の復興を念願した地域の手により再興された城もあり、今では観光や地域史料として活用されています。
本能寺の変を起こした明智光秀も、坂本城や亀山城、福知山城の他に京都市右京区に編入された京北町にも、光秀が築城した山城である周山城が当時のままで現存しています。
そうした城の再興を山城で有名な竹田城の整備の様子を交えながら、周山城の今後のあり方を考えてみます。
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教団の聖地となった亀山城
織田信長の家臣団の中で、有力者の一人だった明智光秀。比叡山焼き討ちの功績から坂本城を築城したあと、光秀は信長から丹波国の宇津氏や萩野氏・赤井氏の討伐の命を受けて、天正3年(1575)に丹波国の攻略を行います。
JR亀岡駅から程近い亀山城跡は、現在は大本の施設となっており、見学する際には施設内の受付で対応していただけます(有料)。
まず光秀は亀山(亀岡市)に城を築き、城下町を整備して丹波攻略の足掛かりとします。
案内図を見ると往時の姿のような天守台が残っていますが、実は昔からあるものではありません。
光秀が山崎の合戦後に討ち取られた後、亀山城は江戸幕府政権下での地理的に重要な城として、藤堂高虎の手によって五重の天守閣がそびえる城郭へと作り直されました。江戸時代前期に松平家が3代にわたり城主を務めた間に、城は新たな施設が建設され、ますます立派な城郭となりました。
受付にある亀山城の歴史コーナー。城の歴史が詳しく案内されています。
明治維新となり明治6年(1873)に大蔵省の管轄となり施設払い下げの廃城令が執行されると、亀山城は破却の対象となりました。明治10年から現存していた天守閣の取り壊しされ、城内の建物はばらばらに売られて移築されました。
石垣の前には取り壊される前の天守閣の写真が案内板に掲載されています。
明治30年頃に山陰線(現在の嵯峨野観光鉄道)建設で、残った石垣が運び出され城の樹木も刈られて鉄道の敷設に転用されたのです。こうして城跡はますます荒廃していきました。
石垣には江戸時代の天下普請の際に使用されたと思われる、刻印の彫られた石垣があります。
この惨状に憂いた人物が大本教祖の一人、王仁三郎氏でした。大正8年に山陰線建設に尽力した田中源太郎が所有していた城跡の敷地が売りに出されると、対立購入者であった京都府が交渉決裂することによって、王仁三郎氏が購入することになりました。
天守台下の石垣。大城郭を思わせるような佇まいを見せる。
王仁三郎氏は亀山城跡を大本の聖地として綾部と並ぶ場所にすべく、大正14年(1925)に信者達と再建を始めます。
抜き取られた石垣の跡の土山を平地にならすために土砂を運搬すると、掘った土からなぜか石垣の石が大量に出てきました。
工事により現在の三段の平地が作られ、出土した石垣を利用して、天守台跡にあった大銀杏の周辺まで石垣を築きました。教団施設も建築され城跡は再興されていきました。
大本信者によって組み直された石垣。しかし石垣は再び崩された。
昭和2〜3年頃には天守台にある大銀杏まで組み直されましたが、昭和10年(1935)12月に警察による弾圧により城跡の施設は徹底的に破壊ました。土地も没収されていましたが、教団は国を相手に提訴して無罪を勝ち取り、戦後になって土地は返還されました。
天守台跡には大本の最高至聖所「月宮宝座(げっきゅうほうざ)」と大銀杏があります。
再建には75歳となった王仁三郎氏が現場を指揮をしました。
昭和25年に大本三代教主であった出口直日(なおひ)は城跡の整備について山の裾野をイメージして日本の山野に自生する多種多様な樹木や草花を植えていくように指示したそうです。
自然な形を生かしながらも松の枯れ枝ひとつまで見逃さないくらいの徹底した指導で境内地を整備していきました。
今でも城跡は四季折々の草木が栄え、地元の人達の憩いの場となっているのです。
亀岡市文化資料館の江戸期の城下町の模型。
亀岡市では山鉾巡行が行われる亀岡祭が行われていおり、そのお祭りを務める鍬山神社は戦国時代が終わり歴代の亀山城主がによって保護されて、祭りは今も続いています。
亀山城が取り潰された際の住民のショックは大きかったでしょう、幾重の困難を乗り越えて、城は再興されたのでした。
市民の手により蘇った福知山城
天正4年(1576)の大阪の石山本願寺攻略の際に病に倒れた光秀でしたが、滋賀の坂本城で療養した後に天正5年から再び丹波攻略を本格化し、多紀郡(丹波篠山市)の籾井氏の籾井城を落城させ、天正7年5月に信長を裏切った波多野氏の八上城(丹波篠山市)を攻め落とし、8月に黒井城(丹波市)を攻略して赤井氏を降参させました。
福知山城の全景。手前のアーチ橋が存在感があります。
光秀は丹波国を平定し、信長から「その名誉は天下に比類なし」との言葉を受けました。
天守から由良川を眺める。
光秀は黒井城北部の由良川と土師川が合流する地に福知山城を築城します。亀山城のように川に近く水運も使え、丹後国と但馬国と隣接する福知山は軍事要衝として絶好の場所でした。
野面積みの石垣。天正期からの積み方がほぼ現存している。
秀光は城主に娘婿の明智秀満(三宅弥平次)を置き、城下町を作ります。しかしながら天正10年(1582)6月の本能寺の変から山崎の戦いにより光秀は逃亡中に農民に討たれ死亡。秀満も有名な秀吉軍に瀬田橋で阻まれ馬で湖水を渡った「左馬之助の湖水渡り」で坂本城に逃れたものの、城で討たれ明智一族は滅亡します。
福知山城の石垣には墓石や石仏といった様々な転用石が使われている。
光秀後の福知山城は羽柴(豊臣)秀長、杉原家次といった豊臣秀吉の親族が務めたのち、小野木重次が城主となります。関ヶ原の戦いで西軍につき、細川幽斎がいた丹後国の田辺城(舞鶴市)を攻撃したが西軍が敗れると重次は福知山城から亀山城へと赴き自決しました。
福知山城内のパネル展示。明智光秀から江戸時代の福知山城の変遷がよく分かる。
関ヶ原後は有馬豊氏・岡部長盛と続きますが続く稲葉紀通が福知山騒動により本人が自殺、代わりに松平忠房が入ります。その後は朽木氏が代々城主となり、明治維新を迎えます。
3層4階からなる望楼型の大天守と、2層の小天守を組み合わさった福知山城天守。
廃城令後、天守閣といった大半の建物は取り壊され石垣や銅門が残るだけどなりました。戦後になると復興の機運が高まり、一口3000円の瓦一枚運動によって寄付を募り、昭和61年(1986)に再建整備された。
福知山城が市民による街のシンボルとして復活し、光秀の街として復活を遂げました。
令和5年8月26日にか開館したフクレル。
福知山のもう一つの重要なのは鉄道の街として、北近畿の中継点のなったことです。
動輪が鎮座する歴史ゾーン。
昭和25年(1950)に創設された鉄道管理局は、関西では大阪と天王寺の他に福知山が選ばれました。これも福知山市が隣接した自治体を巻き込んでの運動を行い、鉄道拠点として街は賑わいました。
光秀が福知山の地を選び城下町として整備した地域は、先見の明があったと言えるでしょう。
こうして亀山城と福知山城には江戸幕府から大名が置かれ、丹波国の重要な拠点となりました。
戦国末期の山城、光秀が天下を夢見た周山城跡
光秀の丹波国攻略に関して、2005年に京都市右京区に編入された京北町に城跡があります。
京北町は京都市の市街地から高雄を抜けて、かつての栗尾峠(今はトンネルになっている)を超えたところにあります。
北山杉が立つ登山道。
天正7年(1579)7月に周山城の西にあった宇津城を攻め、宇津氏は逃亡して落城しました。周山城はその年から築城されたと推察されています。
登山途中の展望箇所。
京都市に編入された京北町は小浜に通じる西の鯖街道と、花背を通り久多から東の鯖街道に通じる交通の要所でした。また平安時代から木材を大堰川〜桂川に流して運ぶ水運の起点でした。
周山城から東側にある山国には南北朝時代の北朝天皇だった光厳天皇が隠棲した常照皇寺があり、天皇の領土であった皇室領でした。
登ると城の入り口らしき曲輪が見える。この場所は武具や食料を置いていた場所とされる。
亀山・福知山城が平城であったのに対して、周山城は戦国期の山城さながらの形態です。光秀の他の城が平城に対して周山城が山城であった理由は定かではありませんが、まだ何かしらの戦闘の兆候があったのかもしれません。
天守台へと続く虎口。破却の際に石垣が崩された様子がある。
光秀の築城、この城は明智源七郎が城主を務めていましたが、城に滞在するわけではなく非戦闘時は裾野に降りていたようです。
天守台跡にある看板。
光秀が城に滞在した記録は天正9年(1581)年に津田宗及を招いての茶会を催した記録が残るだけで、城自体の使われ方も謎があります。
天守台跡の窪み。
天守台跡は周り3箇所を石積みして、天守の地下階層を作っていた、と思われます。こうした天守台の構成は信長の安土城に類似点があります。
周辺に散乱している瓦。
よく辺りを見回すと、瓦らしき物が落ちています。今は建物の形跡はありませんが、光秀が茶会を催した際には天守閣が存在していたのかもしれません。
本丸下部の石垣。
本丸跡を降るとぐるりと取り囲む石垣が見れます。周山城は東西1.3km、南北0.7kmの広さで、。また西側にも西の城があり、信長が築いた安土城に匹敵する広さを誇ります。石垣は山を削った平地を支えるように張り巡らされているので、土に埋もれた石垣がまだまだあるようです。
積まれている石垣。
この時代の石垣は3段に石垣を積んで踊り場を設ける段組みと呼ばれる工法で、近世城郭の算木積の前の形態で、野面積みからの過渡期に至る様子がわかります。専門家によると「平安時代以降の穴太衆の独創的な建築手法が用いられているのでは」との意見でした。急速に進歩した石垣の発展が窺える様式です。
杉が立ち並ぶ周山城。
周山城は光秀の死後に秀吉が立ち寄り部下を配置したようですが、天正12年頃には廃城となったようです。破却による一部の破壊後は、ほぼ手付かずのまま放置され、植林により木の生い茂る城となりました。
周山という地名は江戸時代の江村専斎「老人雑話」によると、光秀が中国の古代王朝の周の武王に準えて名付けたと言われ、信長を周に滅ぼされた殷の暴君に準えたと言われています。
周山城は本能寺の変を起こした光秀の、天下統一の野望を表した城と言えるかもしれません。
雲海が見える天空の城、竹田城跡の保存活用の仕方
天空の城で有名な兵庫県朝来市の竹田城跡は、国内で最も有名な山城でしょう。平成26年(2014)に爆発的な人気で来訪者58万人を記録し、その後は数を減らして令和元年(2019)度に17万人となりました。コロナ禍で減少しましたが、再び活気が戻ろうとしています。
竹田城へは駐車場から徒歩で登城します。
竹田城の始まりは室町時代の武将、山名時氏が足利尊氏に仕えて建武4年(1337)に伯耆国(鳥取県)守護、康永2年(1343)に山名丹波守護と勢力を伸ばし、山名時熙の時代であった明徳2年(1391)には十一カ国(丹波・丹後・但馬・因幡・伯耆・出雲・隠岐・美作・備後・紀伊・和泉)の領有するに至り、六十六ヶ所の国の六分の一を占めることから「六分一殿」と、山名氏は守護大名として隆盛していました。
入り口で入場料を払います。
足利義満の時代になると、山名氏の巨大な存在を疎んだ義満が勢力の削減を企て、山名氏の内紛を利用して明徳の乱(1392)が起こり、諸国は他の大名へ分配され、山名氏は但馬・伯耆・因幡となったが、その後は再び十カ国に回復しました。
しかし、応仁の乱(1467〜1477)でまた但馬・因幡・伯耆・備後へと減少し、戦国末期時代には但馬・因幡となりました。
竹田城の虎口。
竹田城は山名氏の配下・太田垣氏一族が城主を務めていました。大田垣通泰の時代に明徳の乱・応永の乱で活躍し、それが認められて但馬守護を任せられ、後の世代も備後や播磨の守護となりました。竹田城は一世紀にもわたる大田垣氏一族の拠点となったのです。
算木積みで組まれた竹田城跡の石垣。
戦国時代に入ると織田信長による羽柴(豊臣)秀吉の但馬攻略により、天正8年(1580)に山名氏やその配下は排除されました。その後秀吉軍の山陰攻略の拠点となり、鳥取攻めでも使用されました。
大手門を通る道は路面を整えた遊歩道として整備されている。
今に構成されている石垣は秀吉が天下統一をした後に、城主を任された赤松広茂の時代に改造されたと思われます。竹田城は近くに生野銀山があり、秀吉にとっては大事な財源であったため、また大坂城の守りの城として立派な石垣が組まれました。
鏡石と呼ばれる巨大な石が使われている石垣。
巨石を組んだ石垣は石を交互に積んだ算木積みで、「見栄」と呼ばれる頂点に向かって反る「キオイ」といった、江戸時代の石垣への過渡期がよく分かリます。
登城には高齢者も多いため、木で段差を和らげた石階段。
関ヶ原の戦いで広茂は西軍についたため立場が不利になり、立場を保身するために西軍についていた鳥取城を攻めるも、城下町を焼き討ちした作戦の非を徳川家康に攻められ、鳥取県の真教寺で自刃します。
天守台への遊歩道は、路面の色が景色に合うように変えられている。
その後、竹田城は廃城となり建物は潰され、そのまま放置されました。昭和17年(1942)に旧竹田町時代に竹田城の保存を図るため史跡指定申請書を文科省に提出しました。翌年には史跡に指定されましたが、本格的に保存活用が行われるのは戦後の昭和47年(1972)でした。
本丸への木製通路で歩きやすくしています。
昭和48年から昭和55年にかけて石垣修理が行われ、費用として6400万円が使われました。昭和52年度に保存管理計画が作られ、以後はこの計画に沿って保存整備が行われるようになりました。
天守台からの風景。
保存計画は調査や補修、城の土地の公用化が行われ平成22年度に時代にあった保存を行うため計画を見直し、城下町の整備や道の駅「但馬のまほろば」に作られた「古代あさご館」や、元酒造所を改修した「たけだ城下町交流館」が作られました。
竹田城の観光拠点、山城の里。
そして、昭和61年に竹田城跡保存会が結成され、城郭研究はもとより地元の教育教材としての利用、ボランティアガイドの育成などで観光客を迎え入れる仕組みが作られました。
各地の城の伝承や史跡は、地元住民の積極的な保存活動により守られてきました。周山城は調査を踏まえて史跡認定を目指すことになり、京北町地域の発展を願います。
各施設のWEBサイト
参考文献
亀山城パンフレット(大本)
丹波決戦と本能寺の変(亀岡市文化資料館)
福知山城パンフレット・WEBサイト
周山城址パンフレット
天下人の城(京都市文化財ブックス31)
史跡 竹田城跡(朝来市教育委員会)