第9回・悪霊への畏怖、御霊会の始まり(850年〜)
この時代は貴族による権力闘争が頻繁となり、嵯峨天皇の信頼を受けた藤原冬嗣が太政大臣に就くと、他氏排斥が行われ応天門の変(貞観8年・866年)により伴善男が左遷された。藤原冬嗣の子、藤原良房が太政大臣・摂政に、良房の養子の藤原基経が関白に就き、藤原北家が台頭する摂関政治になる。
貴族や天皇家に関わる寺社が相次いで建立・創建され、今に続く神事が行われてていく。
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藤原家の台頭
後愛宕墓・藤原良房墓(左京区北白川)
北白川に藤原良房の墓があったとされる。
泉涌寺(東山区泉涌寺)
天長年間に空海が草庵を結んだ、または斉衡3年(856年)に藤原緒嗣が創建した法輪寺が由緒とも言われるが、元は仙遊寺という名だった。建保6年(1218年)に宇都宮信房から仙遊寺が俊芿律師に寄進され、土地から清水が湧き出たので泉涌寺という名になった。
仁治3年(1242年)に四条天皇の葬儀が営まれてから、孝明天皇まで9代の江戸時代の天皇・皇后の葬儀が行われ、皇室の菩提寺として御寺と呼ばれるようになった。
祭神を祀る神社や新たな寺院
貴船神社(左京区鞍馬貴船町)
貴船神社は伊弉諾尊が剣で火の神を切り、分かれて生まれたのが水の神であり、高龗神として祀る。鴨川の水源にあり水の供給を司る神として祀られる。
また、神武天皇の皇母、玉依姫が大阪湾から船で貴船の奥宮に辿り着き、祠を建てたとされる。
平安時代から朝廷の雨乞いの儀式の場とされた。
吉田神社(左京区吉田)
貞観元年(859年)に藤原山陰が平安京の鬼門にあたる吉田山に創建した。神楽岡と呼ばれる神様が集う場所といわれる。吉田神道の総本山でもある。
藤原山陰は調理を発案したと言わる料理・飲食の神として祀られている。また包丁の神としても生間流(いかまりゅう)式庖丁が奉納が5月8日に行われる。
果物を持ち帰った神と饅頭を日本で初めて作った神を祀る菓祖神社がある。
醍醐寺(伏見区醍醐)
貞観16年(874年)に醍醐山(上醍醐)に聖宝理源大師が草庵を結んだのが始まり。
大師が祈念していたところ五色の雲が東の山に見え、訪れたところ翁がおり、飲んだ湧き水を醍醐味と言った。大師が寺院を作りたいと言ったところ翁が、私はここを守護する横尾明神で寺を作るなら守護をする、と言って姿を消した。
上醍醐が作られたのち下醍醐が作られ、巨大伽藍となった。五重塔は平安時代から残る京都府下唯一の建造物。
祇園祭の発祥、御霊会
御霊神事
貞観5年(863年)、清和天皇による御霊(早良親王ら)の怨念を鎮めるべく神泉苑で御霊会を行った。舞や雅楽が奉納され、一般の人も見物できた。その後、都の各地で御霊会が行われ、貞観11年(869年)に二丈(約6m)にもなる鉾を国の数にあたる66本を神泉苑に立て厄払いをした。これが祇園祭の鉾の由来となった。
八坂神社(東山区祇園)
斉明天皇2年(656年)に高麗から来た伊利之(八坂氏の祖先)が、八坂の地に新羅国の牛頭山の神、素戔嗚尊を祀ったのが始まりと言われる。天長6年(829年)に紀百継が創建した感神院、貞観18年(876年)に円如が堂を建立し、天神の祇園神が祇園林に降りたことで祇園社になった、と創建には由来が多い。現在の八坂神社になったのは慶応4年(明治元年・1868年)の神衹官達によるもの。
参考文献
京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ
京都・観光文化検定試験公式ガイドブック(淡交社)
フィールド・ミューアジム京都
各寺社の公式サイト・パンフレット
剣鉾のまつり(京都市文化財ブックス)
※各説明文に関しては史料などを参考に、独自に考察しています(2021.02/26改訂)。