豊臣秀吉の出世の地を巡る船旅、湖北の琵琶湖周航で今津から竹生島に渡って長浜へ

大きな湖の琵琶湖は古代から湖岸を行き交う人々によって、歴史上多くのエピソードがあります。西に高島市と東に長浜市がある湖北は、交通の要衝として重要な場所であり、竹生島を中心としての信仰の場でありました。

琵琶湖の湖北地域

九里半街道

湖西側は俗に言われる鯖街道の一つとして小浜から高島市今津へ出て湖上経由で大津へと向かい、そこから京都へと入りました。この街道は38キロメートルと短いため九里半街道と呼ばれました。

長浜城本丸跡

湖東側は長浜市湖北町の小谷城を拠点としていた浅井長政を滅ぼした織田信長に仕えていた羽柴秀吉が、初めて一国一城となった長浜城がありました。

竹生島

東側と西側は湖上の途中にある竹生島を繋いで行き来をしており、島にある宝厳寺は、平家物語では平経正(たいら の つねまさ)が木曽義仲討伐の戦勝の祈願や、浅井長政や織田信長といった戦国武将の寄進により守られてきました。

琵琶湖周航の歌発祥の地、今津

今津駅

竹生島に行く船は琵琶湖汽船の運航で今津港と長浜港から出ています(彦根港の便は別会社)。今津港と長浜港それぞれに往復乗船が設定されていますが、今津港〜竹生島〜長浜港を繋ぐびわ湖横断航路があります。

最寄駅の近江今津駅は京都駅から新快速でおよそ一時間です。

琵琶湖周航の歌 資料館

今津は琵琶湖周航の歌発祥の地とされ、大正6年に旧制第三高等学校(現在の京都大学)のボード部に在籍していた小口太郎が、今津で合宿していた際に作った詞に吉田千秋が作曲した「ひつじぐさ」に載せて歌われた寮歌がその原点とされています。

琵琶湖周航の歌 資料館内

寮歌として歌われた琵琶湖周航の歌は、昭和に入り多くの歌手に歌われましたが、昭和46年の加藤登紀子のカヴァーにより大ヒットしました。

琵琶湖周航の歌 資料館内
琵琶湖周航の歌 資料館内

作詞が小口太郎、作曲が吉田千秋となっていますが、実際には二人の面識はなく、作曲者の特定も近年になってからでした。歌の成り立ちがあやふやのため、歌に関しては色々な逸話があります

今津港 石碑

現在では琵琶湖遊覧のテーマ曲となり、六番まである歌詞はそれぞれ石碑となって、琵琶湖の主な港に建っています。

今津ウォーリズ資料館

また今津にはヴォーリズ建築の建物が3棟あり、大正12年に建てられた元百三十三銀行今津支店が今津ヴォーリズ資料館として見学できます。

今津港

それでは竹生島へ出航しましょう。実は当日は強風により午前に乗る便は欠航してしまいました。湖西線も強風により止まる可能性もあるので、天気には気をつけましょう。

信仰の島、竹生島

竹生島

今津港を出た船は、竹生島へおよそ30分ほどで着きます。島といっても浜がなく、大きな岩という感じです。

竹生島

竹生島は宝厳寺と久夫須麻(つくぶすま)神社(または竹生神社)の二つの社寺になっており、別途拝観料が必要となります。港には飲料や軽食が販売されているのがいいですね。

竹生島 宝厳寺 本堂

宝厳寺は日本三大弁才天の一つを祀る寺として、神亀元年(724年)に聖武天皇の勅願により、行基が開眼したとされます。三つの弁財天の内最も古いとされているので、大弁財天とされています。弁財天像は秘仏とされ、60年に一度ご開帳されます(次は2037年)。

竹生島 唐門

2020年に修復を終えて絢爛豪華に色彩が戻った唐門。秀吉期大坂城から移築されたと言われており、国宝に指定されています。

竹生島 舟廊下

唐門と神社を繋ぐ渡り廊下は、秀吉の御座船だった日本丸の部材を使って組まれたと言われています。

竹生島 舟廊下

廊下の下はこのような懸作りなっていて、重要文化財に指定されています。

竹生島 久夫須麻神社

久夫須麻神社の本殿は秀吉期の伏見城からの移築と言われ、豪華絢爛な装飾が施され国宝に指定されています。

竹生島は他に宝物殿にも多数の由緒の品があり、島全体が文化財そのものでした。他にもかわらけ投げや幸せ願いダルマといった願掛けもできたりと、信仰の島そのものと言えるでしょう。

秀吉の城下町、長浜

長浜港

竹生島を後にして長浜港に着きました。

長浜市長浜城歴史博物館

長浜城は湖北を支配していた浅井長政が天正元年(1573年)に織田信長によって滅ぼされた際に、戦いに参加した羽柴秀吉の活躍が認められ浅井氏の領地が与えられました。天正2年に今浜と呼ばれていた今の長浜に城を築城し、城下町が形成されました。長浜城は秀吉の出世のシンボルとして、昭和58年に模擬天守として市民の寄付などにより再興されました。

長浜市長浜城歴史博物館

2023年は長浜城築城450年と博物館開館40周年を記念して、特別展「長浜城主 秀吉と歴代城主の変遷」が開催されています。秀吉の後に城主を務めた4人の武将と長浜城廃城までの書状といったいろいろな資料が展示されています。

長浜城展望 西側

展示室は撮影禁止なので、最上階の望楼からの眺めを見てみます。西側は琵琶湖が一望できます。

長浜城 南側

南側は彦根方面が見えます。

長浜城展望 東側

東側は伊吹山系と城下町が見えます。

長浜城展望 北側

北側は竹生島や小谷城が見えます。こうしてみると長浜という場所が湖北を支配する際に最適な場所だったのがわかります。

長浜城歴史博物館

長浜城は4代目城主内藤信政が元和元年(1615年)に高槻城へ移封することにより廃城となり、部材は彦根城へと移築されました。天守閣は秀康の書状により存在していたことは確かで、再興する際に天正期の安土城といった城郭をイメージして建築されました。

長浜城御馬屋跡

長浜の街には長浜城に関する石碑が多数建てられており、城下町の様子が分かるようになっています。

長浜城の構造

当時の長浜城は琵琶湖に面して本丸が飛び出した水上の城でした。

長浜城 大手門前跡

大手門は城へ入る玄関口の門です。

長浜市 豊国神社

慶長3年(1598年)に秀吉が京都の伏見城で逝去すると、町民たちは長浜城内に京都の豊国神社と同じように神社を構えました。しかし、徳川政権になると秀吉に関する建物として取り壊されました。その後、えびす宮として恵比寿像の後ろに秀吉の像を隠して再興され、明治維新の後に大正9年(1920年)に正式に豊国神社となりました。

GATE“HYOUTAN”

長浜市民の秀吉への愛はこうしたひょうたん型のモニュメントに現れているようです。天下統一の足掛かりが長浜城にあった秀吉への愛着は深いものがあります。

長浜市 秀吉三成出逢いの像

天下分け目の決戦だった関ヶ原の戦いで、豊臣側を指揮した石田三成との出会いも長浜でした。三成が不利と言われた徳川方への戦いを挑んだのも、秀吉への忠心と言えましょう。

戦国時代の行く末を占う戦いの一つが、湖北の小谷城の浅井氏との戦いであった事は間違いありません。ここでの秀吉の活躍が出世して一国一城の主人という概念が生まれたのでしょう。

琵琶湖挟んで高島市と長浜市の湖北地域は、まだまだ多くの史跡や名所が存在します。琵琶湖遊覧も利用して回ってみたいですね。