第36回・山城国を流れる大河

山城国には鴨川以外にも北は丹波国から桂川、東は琵琶湖から宇治川、南は伊賀国から木津川が流れ、淀で淀川となり大坂に至る海へと繋がる平城京、恭仁京、長岡京、平安京時代の物流や人の往来の大動脈だった。

木津川

都名所図会第5巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

木津川は三重県の伊賀市から流れる川で、京都府の南山城村・笠置町へと西流れて木津川市から北上し、京都市伏見区淀で宇治川・桂川と合流する。

恭仁京(木津川市加茂町)

都名所図会第5巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

和銅元年(708年)に都が平城京に遷都され、木津川は海上交通としての重要な河川となった。天平12年(740年)に木津川に近い今の木津川市加茂町に恭仁京が遷都された。天平15年(743年)に滋賀県甲賀市信楽に紫香楽宮にが遷都されても、平城京から移築された大極殿は山城国分寺として残り、天平17年(745年)都が平城京に戻りに大仏建立の際には建築木材を運搬する川として、木津川は重要な航路であり続けた。

海住山寺(木津川市加茂町)

都名所図会第5巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
都名所図会第3巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

奈良時代に恭仁京遷都前に創建されたとされる海住山寺を中心に、加茂地域は南山城の中心地となった。鎌倉時代に奈良の興福寺から笠置寺を経て貞慶が晩年過ごした寺として名を馳せた。

笠置寺(笠置町笠置笠置山)

都名所図会第5巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

笠置は奈良時代から木津川上流から伊賀上野から木材運搬の港として利用された。しかし、南山城村〜笠置間の木津川は岩が張り出し、運行を阻んだ。そうした岩を砕く祈祷が東大寺大仏殿造営に笠置寺で行われ、東大寺のお水取りの発祥とされた。

近世に入り淀川〜木津川の航路は尼崎〜笠置と広範囲に広がった。しかし笠置から東は難所とされ、慶長年間(1596〜1615)に角倉了以によって開削されたとされるが、実際に長田川(木津川)通船が通るのは角倉家によって再び開削事業がなされ、通船が通ったのは文化12年(1815年)1月となった。

玉川

都名所図会第5巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
都名所図会第5巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

井手町を東から西へ木津川へと流れる玉川日は本六玉川の一つ。井手山の山間を縫うように流れる川は絶景で、途中に石に馬の彫刻が彫られた巨大な石があり、本来は平安時代に水を治める絵馬として作られたものらしい。
いつの間にか江戸時代には「女芸上達の神」として崇められた。本来は玉川左岸の株山にあったが、昭和28年(1953年)の南山城水害の際に現在の左馬ふれあい公園の場所に流れた。

玉水(井手町井手柏原)

都名所図会第5巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
拾遺都名所図会第5巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第5巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
都名所図会第5巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

井手の里である玉水は、奈良時代に平城京で活躍した左大臣橘諸兄公が別荘を構え、玉川は風光明媚な場所として歌人によって多くの歌が読まれるようになりました。

玉川で遊ぶ様子

都名所図会第5巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
都名所図会第5巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

橘諸兄が玉川の堤防沿いに山吹を植えたことから、古今和歌集には有名歌人によって山吹が枕詞として読まれた。

小野小町「色も香も なつかしきかな 蛙なく 井手の渡りの山吹の花」

和泉式部「かはべなる 所はさらに 多かるを 井手にしも咲く 山吹の花」

西行「山吹の花咲く井手の 里こそは やしうゐたりと 重はざらなむ」

拾遺都名所図会第5巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

橘諸兄が創建したとされる井手寺。小野小町は伝承として井手寺で生涯を終えたとされた。

新古今和歌集の、

藤原俊成「駒とめて なほ水かはん山吹の 花の露そふ井手の玉川」

平安貴族達の見た玉川の美しさは絶品だったと思わせます。

江戸時代の玉川は江戸から伊勢神宮の参拝を経て都へ行く旅人達の宿泊・休憩地として大いに賑わいました。

多くの歌人に愛される場所だった玉水は、近代になると宿泊地としての機能を失いましたが、現代の玉川は桜の名所としての賑わいがあります。

木津川の渡し船

拾遺都名所図会第5巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
拾遺都名所図会第5巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

木津川の対岸へ渡る山本の渡し飯岡の渡しといった渡し船も多くありました。藪の渡しは高倉神社の西側から木津川を対岸へと渡っていました。萩の渡しは西の郡山街道の起点となり、郡山藩が管理する往来渡し船として重要な交通ルートでした。

都名所図会第5巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

木津と下狛を結ぶ渡し船は大和街道を繋ぐ重要な航路ですが、以前は東大寺の創建に尽力した行基によって橋が架けられていました。

こうした渡し船は橋の架橋によって数が減り、岩田の渡しが昭和61年(1986年)に無くなって渡し船は姿を消しました。

宇治川

都名所図会第5巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
都名所図会第5巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

宇治川は琵琶湖から流れる瀬田川が滋賀県と京都府の境で名を変えて流れる川で、その水量は多く巨椋池と呼ばれた遊水池ができるほどだった。

瀬田の唐橋(大津市瀬田)

近江国名所図会 文化11年(1814年)(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
近江国名所図会 文化11年(1814年)(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

宇治川の源である瀬田川に架かっていたのが瀬田唐橋で、宇治橋と山崎橋と並んで三大橋に数えられていた。大海人皇子と大友皇子が壬申の乱で戦った場所であり、都が京都になってからは「唐橋を制するものは都を制す」と言われる軍事上重要な拠点となり、戦乱で数多くの戦いが繰り広げられた。

宇治橋(宇治市宇治)

都名所図会第5巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
拾遺都名所図会第5巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

橋寺(放生院)宇治市宇治東内

都名所図会第5巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

宇治橋は大化2年(646年)に道登という僧が架けたとされる。この由来は当時に作られたと思われる国内最古級の石碑に、宇治橋が架けられた経緯を説明する宇治橋断碑が橋寺こと放生院に置かれている。しかしながら、続日本書紀には670年頃別の僧侶で道昭が架けたとも書かれている。

平等院(宇治市宇治蓮華)

都名所図会第5巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
拾遺都名所図会第5巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

宇治橋周辺は平安時代になると貴族達の別荘が建てられ、平等院は藤原道長の権力の象徴として今も優美な佇まいを見せます。

しかし宇治橋や平等院は瀬田の唐橋と並んでに幾多の戦地となります。打倒平家を掲げる以仁王と源頼政の戦いや、源義仲と義経の戦いと平家物語に登場します。承久の乱では後鳥羽上皇と北条軍の戦い、 建武3年(1336年)に楠木正成と足利尊氏と戦った際に正成が平等院周辺に火を放ち、多くの阿弥陀堂を残して多くの伽藍が消失します。

明応年間(1492〜1501年)から他の伽藍再建が進み、阿弥陀堂も寛文10年(1670年)に修理が行われました。

浮島十三重塔(宇治市塔ノ川)

都名所図会第5巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

宇治川にある十三重塔は鎌倉時代の僧侶叡尊により弘安9年(1286)に建立された。当時宇治橋は流されてなく、叡尊は自身が望む宇治川での魚などの殺生禁断とともに橋の架橋に取り組みました。その二つは完遂し宇治橋が架けられた年に式典が行われ、十三重塔が作られました。

浮舟島

都名所図会第5巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

しかし中洲にあった十三重塔は宝暦6年(1756に)に大洪水によって倒壊し、都名所図会は1787年に刊行されたので、塔が描かれているが実際には建ってはいなかった。

明治に入って再建されることになり、川から笠石が発掘され、それを積み直して明治41年(1908)の8月21日に完成しました。

宇治川の鮎獲り

都名所図会第5巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

宇治川の蛍

都名所図会第5巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

江戸時代の宇治川では魚釣りや蛍を観に来るなど、今と変わらぬ遊興の地として愛されていました。

木幡川

拾遺都名所図会第5巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
拾遺都名所図会第5巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

京都の東側の山科から流れる山科川は醍醐を通って六地蔵から宇治川と合流します。六地蔵の南側の木幡は他の河川と合流する湿地帯で、今でも木幡池があります。

巨椋池

拾遺都名所図会第5巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第4巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

巨椋池は伏見の南部に広がっていた周囲16km、面積約800haもある池で、水運交通や漁業として重要な池でした。池には大小の島があり、向島や槙島といった地名に残ります。伏見から見る巨椋池は景観地として宇治・嵯峨と並ぶほどでした。

拾遺都名所図会第4巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

一口には漁港があり、江戸時代のこの地域の漁業権は山田家が管理していました。

拾遺都名所図会第5巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

豊臣秀吉が自身の政治の拠点を伏見城とすると、宇治川を堤によって河川改造をし、こうした堤を各地で作り巨椋池を独立した池としました。

伏見

都名所図会第5巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

堤の上は人の行き交う街道となり伏見に道筋が集約され、淀川を行き交う船の港町となり、江戸時代は宿場町として栄えました。

近代に入り鉄道網が充実すると伏見の舟運は衰退し、巨椋池は昭和6年に干拓され広大な水面は姿を消しました。

桂川

都名所図会第4巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
都名所図会第4巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

桂川は京都の北部から流れる川で、京都北部から大堰川(大井川)、亀岡から保津川と名前を変え山間を通り、嵐山に到達して桂川と呼ばれるようになり淀へ繋がります。

清滝川の筏下り

拾遺都名所図会第4巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

丹波の豊富な木材は長岡京造営から桂川を筏にして運ばれ、平安京や京都の寺院、大阪城・伏見城といった建築材を供給しました。慶長11年(1606年)に角倉了以により開削が行われ、さまざまな物資が運ばれ都の経済を支えました。

図会では保津川の支流の清滝川からも筏で運ばれている様子が書かれており、保津川は近代に入り遊船として人を乗せる保津川遊船として続いています。

桂川の鮎獲り

都名所図会第4巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

江戸時代の桂川では魚釣りが楽しまれていました。

桂川を渡る様子

拾遺都名所図会第4巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

橋が無い場所では案内人が旅人を背負って川を渡りました。

淀川

木津川・宇治川・桂川の三川が合流する淀は、淀津として平安京から港の機能を持った地域として重要な場所でした。

都名所図会第5巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

江戸時代は伏見〜八軒屋を行き交う船で水上交通が盛んでした。三十石関船と呼ばれた船で、江戸時代に書かれた東海道道中膝栗毛の弥次さん喜多さんも伊勢参りから伏見に入り、大坂へと船に乗って降ります。しかし、作中では夜行便の船に乗って枚方で2人が用を足した帰り間違って伏見に行く船に乗ってしまい、京都に戻ることになります。

拾遺都名所図会第5巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

淀は重要な拠点であることから徳川家光が伏見城を廃城とし、淀城を築城して淀藩を置き都の防衛拠点としました。淀城は宇治川と木津川に挟まれた水上の城のようでした。

都名所図会第5巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

行き交う船は淀に差し掛かると水車を見ることになります。水車は淀のシンボルとして現代でも京阪淀駅の前に飾られています。

明治時代初頭の鳥羽・伏見の戦いの際に旧幕府軍の逃走を淀藩は援助せず、裏切られた旧幕府軍の放火により街は燃えました。その後三川の付け替え工事により現在の背割堤ができました。

枚方

河内名所図会 享和1年(1801年)(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

船は南下して航路の途中にある枚方は宿場町で、船に乗る人に食料品を売る「くらわんか船」が横付けてして商売をしていました。

八軒屋

摂津名所図会 寛政8年(1796年)-寛政10年(1798年)(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

八軒屋に着くと商売の店が軒を連ね、江戸時代は大坂の町が活況だったことがわかります。

こうした山城国に流れる三川が物流に大きく貢献し都の発展に大きく貢献しました。時代の流れで川の姿は大きく変わり船も姿を消しましたが、今でも雄大な川の流れは変わりません。

参考文献 
京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ
京都・観光文化検定試験公式ガイドブック(淡交社)
フィールド・ミューアジム京都
各寺社の公式サイト・参拝のしおり・由緒書き
琵琶湖・淀川 里の川をめぐる 源流を行く編 桂川・由良川源流(琵琶湖・淀川水質保全機構)
琵琶湖・淀川 みやびな川 編 伏見の川・醍醐の川(琵琶湖・淀川水質保全機構)
琵琶湖・淀川 歴史とロマンの川編 瀬田川・宇治川(琵琶湖・淀川水質保全機構)
琵琶湖・淀川 歴史とロマンの川編 保津川・桂川(琵琶湖・淀川水質保全機構)
琵琶湖・淀川 源流を行く編 木津川上流源流(琵琶湖・淀川水質保全機構)
伊賀市史
井手町歴史愛好家ロマンのしおり
井手町サイト
笠置町サイト
大山崎町サイト
宇治川十帖(宇治市歴史資料館)
花よ咲け巨椋池
聖地 南山城(奈良国立博物館)
京都の遺跡第12号(京都府埋蔵文化調査研究センター)