第1回・都名所図会で辿る江戸時代の京都
京都は観光都市として有名ですが、現代にあるガイドブックの元祖は京都と山城国を題材に作られた。読めば伝承や寺社といったまちの変化が分かり、今でも京都の文化・伝承・社寺といった歴史背景を探る上で、必読と言える史料である。
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日本の歴史上、初となる観光ガイドブック
江戸時代の安永9年(1780年)に刊行された「都名所圖會(以下の表記は都名所図会)」は、江戸時代中期の京都の寺社や風俗を伝える古典として有名だ。
吉野家為八が京都を図会で都を紹介したいと企画し、京都の俳諧師秋里籬島が文章を、大坂の絵師竹原春朝斎が図版を描いた。
ガイドブックは大ヒット
販売されてからのちに江戸への土産として大ヒットし、製本が間に合わず表紙と中身に糸を添えて販売された逸話が残っている。
7年後の天明7年(1787年)には続編として、前作で入りきらなかった史跡を入れた「拾遺都名所図会」も作られ、各地の名所を案内する図会の先駆けとなり、日本における観光ガイドの元祖となった。
「都名所図会」が6冊、「拾遺都名所図会」が5冊と、今の京都のように多数の史跡がありました。また現在の京都市だけではなく、山城国としてほぼ全域を扱い、現在の京都府南部地域を網羅している。
数多くの史跡、明細な文章、大きな絵図と読み応えがあり、当時としては画期的な紙面で京都の魅力を伝えた。
現代にも残る史跡もある一方、消えた史跡もあり、風景や町の姿は大きく様変わりしている。
「都名所図会」で現代と比べ京都の歴史の移り変わりを巡ってみる事にする。
794年に長岡京から平安京への遷都
京都御所(上京区京都御苑)
平城京から長岡京へ遷都した桓武天皇は、長岡京で起こる災に頭を悩ませていた。
和気清麻呂公の進言により、桓武天皇は葛野郡に初代造営大夫の藤原小黒麻呂を視察につかい、報告から四神相之地として平安京へ延暦13年(794年)に遷都が行われた。その際に国名の山背国は山城国に変えられた。
四神に相応するものは北の玄武は船岡山・南の朱雀は巨椋池・東の青竜は鴨川・西の白虎は山陰道とされてる。山に囲まれた京都は、正に鉄壁の守りに囲まれた要塞として思ったのだろう。
こうして京の都にてまちづくりが行われました。
藤森神社(伏見区深草鳥居崎町)
平安京遷都からある藤森神社、摂政3年(203年)に神功皇后が神羅から凱旋して兵具を納め塚を作り、大旗を立てた旗塚が始まりとされる。
平安京遷都の際に桓武天皇から弓兵政所の称が授けられて、遷都奉幣の儀式が行われた。
藤森神社は菖蒲(勝負)の神様を祀り、競馬関係者が訪れる。
参考文献
京都・観光文化検定試験公式ガイドブック(淡交社)
京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ
※各説明文に関しては史料などを参考に、独自に考察しています(2021.2.16改訂)。