第31回・新たな都を守る水上の城郭・淀城。江戸時代の都の歴史(1603〜1702年)

大坂夏の陣により豊臣家滅亡し、徳川家が日本の政治の本流となった。家康の死後、徳川秀忠は元和5年(1619年)に上洛し、伏見城を廃城にすることと、国内の軍事拠点の再構築に手をつけた。

徳川家による京都の実効支配

淀城(伏見区淀本町)

拾遺都名所図会第5巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第5巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

元和5年に大坂城を再建し、京都をへ向かう交通の要所である淀に再び城が築かれることになった。淀城は京都所司代・大坂城をはじめとする明石・尼崎・高槻・岸和田・亀山(現亀岡)・膳所・大和郡山の各地で畿内を統治するための築城された。伏見は廃城後に奉行所が置かれた。

元和9年(1623)7月に徳川家光が伏見城にて征夷大将軍を受け、と同時に伏見城は廃城となる。伏見城の部材は各地に運ばれ、西本願寺の唐門、御香宮神社の大手門、福山城の櫓などに使われた。天守閣は二条城に、二条城の天守閣は淀城へと移った。城には松平定綱が入り初代淀藩主となった。

淀は宇治川・木津川に挟まれ船の行き来を監視する場所として機能する事になる。また水車が設置され名物となった。

淀藩は藩主が度々代わり、享保8年(1723年)に稲葉正知が就封した後は、鳥羽伏見の戦い後に廃城になるまで稲葉家が務めた。

渉成園(下京区東玉水町)

都名所図会第2巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
都名所図会第2巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

渉成園は東本願寺十三代宣如が家光から土地を寄進され、宣如が退隠し隠居の地として整備し、枳殻(からたち)の生垣を植えたことから枳殻邸(きこくてい)とも呼ばれた。

渉成園の地は源融の六条河原院に近く、塩釜や源融ゆかりの塔など所縁を感じられる。

西本願寺か豊臣秀吉の埋葬地である阿弥陀ヶ峰から正面通を通じて繋がっているが、東本願寺により分断され、さらに渉成園でさらに分断されている。徳川家による豊臣家の繋がりを断ち切る為に土地が寄進されたといわれている。

江戸時代の文化の成り立ち

阿国歌舞伎発祥地(東山区川端通四条下る)

都名所図会第1巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

出雲大社の巫女として舞を踊っていた出雲阿国が、天正10年(1582年)に奈良の春日大社でややこ踊りを披露し、慶長8年(1603年)に念仏踊りからかぶき踊りを創設し、五条河原や北野社境内勧進能の舞台跡で上演して、歌舞伎へと発展した。

こうした女性の踊りは大流行したが、江戸幕府から風俗取締により禁止され、後に男子のみの役者による野朗歌舞伎となった。

幕府の許可で河原町には7つの常設小屋が作られたが、幕末は今に残る南座と対面する北座の二か所となったが、明治に北座が無くなった。

鷹ヶ峰・光悦寺(北区鷹峯光悦町)

都名所図会第6巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
都名所図会第6巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

京都の工芸に長けていた本阿弥光悦が、徳川家康から拝領した鷹ヶ峰に職人を集め光悦村を作り、さまざまな工芸品を作り出し角倉素庵と組んで光悦の文章と俵屋宗達の絵による謡曲本が作られた。木活字による出版物で、装丁の美しさから嵯峨本と呼ばれた。

後に伊勢物語・方丈記・百人一首・徒然草・源氏物語などが出版された。

光悦は鷹ヶ峰に邸宅を構え、それとは別に本阿弥家の位牌堂を作り、光悦の死後は光悦寺となった。

島原(下京区西新屋敷上之町)

都名所図会第2巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
都名所図会第2巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

島原は天正17年(1589年)に二条柳町に初の官許された廓として設立された。六条三筋町に移転し、寛永17年(1640年)に移転命令がなされ、翌年に現在の西新屋敷町へと移った。その際の移転騒ぎが島原の乱のような騒ぎとなったため、その名が称された。

江戸時代は花街として文化人の交流の場となり、島原俳壇を形成するほどになった。

西陣(上京区元伊佐町)

都名所図会第1巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

平安時代に織部司が置かれ、織り手の大舎人座で賑わっていたが、応仁の乱により職人たちは疎開し、乱後再び地に戻り復興した。

近世では高級織物に西陣織が作られ、慶安4年(1651年)頃からビロード織が作られるようになった。

萬福寺(宇治市五ケ庄)

都名所図会第5巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
都名所図会第5巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

寛文元年(1661年)、幕府による幾たびの招請により中国から隠元隆琦が来日し、宇治に萬福寺が創建された。

中国の様式による禅宗で、日本の寺とは一線を画するものだった。また様々な文化が持ち込まれ、普茶料理など日本文化に大きく影響が与えた。

赤穂浪士事件を主導した大石内蔵助の住処

岩屋寺(山科区西野山桜ノ馬場町)

拾遺都名所図会第2巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第5巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
拾遺都名所図会第2巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

播磨赤穂藩主の浅野家の家来だった大石内蔵助は、元禄14年(1701年)に江戸城の松の廊下にて浅野長矩による吉良義央を切り掛かるという事件により領地が没収され、縁戚の進藤源四郎の出身地の山科に住むことになった。

しかし、浅野家再興を考える蔵助は、屋敷の側にあった山科神社の奥の院にある岩屋神社に討ち入りの成功を祈願したという。

橦木町(伏見区橦木町)

都名所図会第5巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

吉良邸討ち入りを画作する蔵之介は橦木町で計画を練り、元禄15年(1702年)12月、ついに討ち入りを果たす。

瑞光院(山科区安朱堂ノ後町)

都名所図会第1巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

瑞光院は元は上京区堀川通今宮御旅所下るにあり、因幡国藩主山崎家が創建した寺だったが、山崎家が廃絶となった際に廃寺となったのを、長矩の妻によって過去に浅野家の邸宅があった所縁で、浅野家の武運を願う寺として再興した。

長矩が切腹した後には蔵之介によって供養塔が作られた。

蔵之介ら46義士は討ち入りをした後に切腹を命じられ、遺髪が瑞光院に埋められた。

寺は昭和37年に山科へ移転となった。

また昭和10年に邸宅跡近くに大石神社が創建され、山科は赤穂浪士所縁の地となった。

安永9年(1780年)、都名所図会が刊行された。

※各説明文に関しては史料などを参考に、独自に考察しています(2022.03/26)。

参考文献 
京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ
京都・観光文化検定試験公式ガイドブック(淡交社)
フィールド・ミューアジム京都
各寺社の公式サイト・参拝のしおり・由緒書き
天下人の城(京都市文化財ブックス)
シリーズ藩物語 淀藩(現代書館)
赤穂浪士と吉良邸討ち入り(吉川弘文庫)