京都で散った織田信長、各所に作られた信長の墓を巡ってみる

天正10年(1582)6月2日、明智光秀による織田信長への急襲による本能寺の変は、戦国時代最大の事件であるとともに、現在でも様々な原因の究明がされています。
信長の墓は同じく討たれた信忠とともに、墓は京都市内に複数箇所ありぞれぞれ由緒があります。

五条油小路

五条通を西に向かい、油小路を北へ上がります。そのまま四条通を超えましょう。

本能寺跡の碑

本能寺跡の碑

本能寺の当時の所在地は現在とは違い、油小路蛸薬師にありました。今でもその痕跡は本能寺町という町名で残ります。本能寺の変により焼失し、後に豊臣秀吉による命令で現在の堀川通寺町へ移転となりました。

ここから北東に移動します。

二条殿跡の碑

京都国際マンガミュージアムの西側、御池両替町通にある二条殿の碑。二条殿は鎌倉後期に連歌で有名な二条良基の邸宅で、その美しさから貴族に評判でした。天正5 年に信長が気に入り移り住み、その後の天正7年に正親天皇の皇太子誠仁親王に譲りました。
本能寺の変に際して信長の息子、信忠が西に隣接していた妙覚寺から二城殿に逃げ込みましたが、信長共々光秀によって討たれます。

足利義昭がいた二条城の跡

旧二城跡の碑

北へ進むと下立売室町通りに面した平安女学院の角にある旧二条城跡。旧二条城は信長が室町幕府の将軍足利義昭が入京した際に造営した城です。その後は信長との関係悪化から義昭を追放し、城は解体され資材は安土城へ運ばれました。

旧二条城の石垣

旧二条城の跡は周辺の発掘により石垣が発見され、一部が御苑に再現されています。御苑を通り抜け北東へ向かいましょう。

信長の遺体はどこへ

阿弥陀寺

御苑を抜けて寺町通を北へあがると阿弥陀寺があります。ここには信長の墓の他に信忠、部下の蘭丸といった墓もあります。
本能寺の変では信長の遺体は建物と共に焼け、発見できなかったとされています。しかし阿弥陀寺の墓は信長の墓だと伝えます。
この阿弥陀寺は当時はこの場所ではなく、堀川上立売通り西の阿弥陀寺町にありました。信長と親しかった阿弥陀寺の清玉上人が、本能寺の変の一報を聞き駆けつけると信長の家臣が信長の遺体を運び出し、亡骸を焼いていました。上人がその遺骨を運び出し寺の地中深くに埋めました。変の後、光秀と交渉し信忠や臣下の遺体を集め葬儀を行いました。
後に阿弥陀寺は秀吉の信長追悼の法事を拒み、秀吉は代わりに大徳寺に総見院を建立して一周忌を行いました。阿弥陀寺は秀吉の名により寺町に移転することになりました。
信長の命日である6月2日に信長・信忠の像が公開されます。

ここから寺町通りを下がりましょう。

本能寺

本能寺は天正19年に秀吉の命により現在の地に移転しました。信長の供養塔は信長の三男信孝が整備したとされています。その塔には信長が愛用した刀があると言われています。

ここから八坂神社へ向かいます。

大雲院

今回のツアーにおける最後の信長の墓は、円山公園の南にある大雲院です。通常は非公開ですが、令和3年度春期京都非公開文化財特別公開で入れました。
大雲院は信忠の追悼ため正親町天皇の勅命で建立されました。当初は二条烏丸にありましたが、秀吉の名により四条寺町に移転、後の昭和48年に現在地に移転しました。他にも石川五右衛門の墓でも有名です。

大雲院が移転する前は大倉喜八郎邸で、昭和3年に建てられた祇園閣が有名です。内部は敦煌の壁画か描かれ、最上階の展望は東山から京都が一望できる素晴らしさです。

史実上では信長の遺体は見つからなかったため、供養墓も含めて市内には信長の墓の伝承は謎に満ちています。

参考文献
春期京都非公開文化財特別公開の手引き(京都古文化保存協会)
信長上洛(京都文化博物館)
明智光秀と戦国京都(京都文化博物館)
阿弥陀寺由緒略記
フィールドミュージアム京都