第23回・後醍醐天皇の建武の新政と足利尊氏の室町幕府(1320〜1341年頃)
承久の乱で後鳥羽上皇を配流した北条家による鎌倉幕府は、100年も経つとの統治が緩み始めた。
この頃の天皇家は文永9年(1272年)に後嵯峨法皇の崩御後、大覚寺統と持明院統に分かれる両統迭立となって交互に天皇を立てる事態となった。
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後醍醐天皇の北条氏との戦い
大覚寺統から即位した後醍醐天皇は、天皇による統治を目指し元亨4年(1324年)に倒幕の密儀である正中の変が発覚、後醍醐天皇と幕府の対立が鮮明となった。
元徳3年(1331年)8月、後醍醐天皇は都を脱出し東大寺へ行くものの入ることを拒否され、鷲峰山を経て笠置寺へ移動し幕府軍と戦うこととなった。
金胎寺(和束町原山)
鷲峰山は白鳳4年(675年)に役行者によって開山されたとされる。後に聖武天皇により平城京の鬼門を守る勅願寺となった。伏見天皇が退位後に僧侶となって伽藍を整備し巨大な寺院となった。
しかし、後述の元弘の乱により逃げる後醍醐天皇を追った幕府軍により焼き討ちにより大半を消失、その後に何度かの火災に遭い縮小し、現在は多宝塔といった一部が残る。
笠置寺(笠置町笠置笠置)
笠置山は弥生時代からの頂上に点在する巨石に対しての信仰があった。笠置寺は天智天皇の皇子が鹿狩りの際に巨石の上から転落するのを仏に助けられ、その恩を報いようと笠置山の巨石に弥勒菩薩像を彫ったのが始まりとされる。皇子の叔父にあたる聖武天皇の勅願により寺院となった。
東大寺の大仏建立の際に資材を運ぶ任を任された良弁和尚、その弟子の実忠和尚により東大寺の修二会は笠置寺から始まったとされる。
平安時代から鎌倉時代にかけて末法思想も相なって、弥勒磨崖仏と虚空蔵菩薩磨崖仏は人々の信仰を集め都から参拝者が訪れた。
解脱上人も入山し大寺院として栄えた。
9月に笠置山に入った後醍醐天皇軍は、幕府府軍との籠城戦を行い、その戦いは一進一退の戦局となった。粘る天皇軍側であったが9月29日に夜討ちに遭い逃走する。その際に寺は全て燃え弥勒磨崖仏も炎に焼かれ姿を消したとされる。
笠置寺は後に復興されるが最盛期ほどの規模ではない。明治から第二次世界大戦にかけて皇国思想により全国より参拝者が多く訪れたが、戦後の参拝者は少ない。
有王山(井手町)
楠木正成がいる金剛山千早城に向かう途中、井手町の大正池の近くにある有王山で捕まり、御輿に入れられて都に護送され、1年後の元弘2年(1332年)に隠岐へと流された。
南北朝時代の始まり
元弘3年(1333年)に後鳥羽天皇は隠岐を脱出し伯耆国(鳥取県)の船上山で再び挙兵した。それに応じ足利尊氏も丹波国笹村八幡宮で挙兵し、六波羅探題を攻略、新田義貞も鎌倉を攻略し鎌倉幕府は滅亡した。
翌建武元年(1334年)に後醍醐天皇は改元とともに建武の新政を行い天皇中心の政治を行なった。しかし武家からの反発も大きく体制は揺らぎ、関東にいた尊氏が独自に荘園を手柄を立てた武家に配分すると、後醍醐天皇は激怒し尊氏討伐を命じる。尊氏は天皇側と戦うこととなり、新田義貞を破り京都に攻め入るが敗退し九州へ逃げる。
建武3年・延元元年(1336年)、尊氏は再び京都を目指し楠木正成を湊川で破り京都に入ると、北朝となる持明院統の光明天皇を立て 建武式目行い室町幕府を作る。
後醍醐天皇は吉野に逃れ南朝をたて、朝廷が二つ存在する南北朝時代となった。
天龍寺(右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町)
延元4年(1339年)に後醍醐天皇が吉野で崩御すると、その年には菩提寺に尊氏は自らを開基として天龍寺を創建する。夢窓疎石が開山したが造営費用が足りず天龍寺船で元と貿易し、その資金で康永4年(1345年)に落慶できた。
等持院(北区等持院北町)
尊氏は邸宅(中京区御池通高倉上る東側)において室町幕府の施政を行ない、後に等持寺となった。
正平13年(1358年)に尊氏が没すると、暦応4年(1341年)に夢窓疎石により衣笠山に開山した等持院に葬られた。等持寺は応仁の乱により衰退し、等持院に移り、足利家の菩提寺となった。
後醍醐天皇と足利尊氏の因縁は南北朝時代となり、その解決には足利義満が平定するまで50年もかかった。
近年までこの因縁は続き、時代祭では尊氏は逆臣とされたため室町時代の行列は2007年まで加われなかった。
参考文献
京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ
京都・観光文化検定試験公式ガイドブック(淡交社)
フィールド・ミューアジム京都
京都観光ナビ
各寺社の公式サイト・参拝のしおり・由緒書き
南北朝時代の丹波・亀岡(亀岡市文化資料館)
南北朝動乱(実業之日本社)
※各説明文に関しては史料などを参考に、独自に考察しています(2021.4/4改訂)。