第18回・保元の乱で始まる武家の時代(1156〜1181年)
平家の隆盛は平清盛の才覚によるところが大きい。武家で貴族と同じように位に就き、太政大臣にまで上り詰め、一族を重要な位に就けた。太政大臣をすぐに辞任して出家、その後に福原(神戸市)で日栄貿易を行い経済を発展させた。
清盛の出世は平氏と源氏、そして後白河天皇による、京都で初めての争いとなる保元の乱が発端だった。
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都での初の争乱・保元の乱
保元の乱の始まりは、鳥羽法皇による崇徳天皇の弟である近衛天皇への譲位の強要が発端であった。上皇となったものの鳥羽法皇により権力から外された崇徳上皇は不満を募らせる。近衛天皇が崩御後に弟の後白河天皇が即位し鳥羽法皇の死も近かった。
高松神明神社(中京区姉小路通釜座東入津軽町)
そして鳥羽法王が崩御した保元元年(1156年)、崇徳上皇は後白河天皇を襲うことを考え、藤原頼長・源為義などを率いて白河北殿(現在の京都大学熊野寮)に集結し戦を伺った。これを予期していた鳥羽法皇は死ぬ前に戦の準備をしており、藤原忠通・信西・平清盛・源義朝・源頼政・足利義康などを擁して、後白河天皇側は高松殿(現在の高松神明神社)に陣をはった。
源為朝は夜討ちを提案するが、夜討ちを嫌った頼長に対し、逆に夜討ちを決行した後白河天皇側が崇徳上皇のいる白河北殿を急襲し、数時間の戦闘で後白河天皇が勝利となった。
安井金比羅宮(東山区東大路松原上ル下弁天町)
江戸時代、安井金比羅宮は安井観勝寺と呼ばれていた。この地は藤原鎌足が藤を植えた藤の名所と言われ藤寺があり、崇徳上皇がこの藤を好み阿波内侍を住まわせた。
乱に敗れた崇徳上皇は讃岐に流された。崇徳は軟禁中は頻繁に金比羅宮を参拝し、都へ帰ることを望んだ。崇徳は大乗経を書き、現状を悔やんで歌を読み都に収めてい欲しいと送ったが、信西に呪詛であると送り返され、激怒した崇徳は大魔王になって呪いをかける願文を血で書いて海に沈めた。崇徳は髪や爪を切らず讃岐で46歳で崩御し松山の白峰山に葬られた。
崇徳の崩御後、藤の名所にあったお堂に篭った大円法師が光るよう崇徳が現れるの見て、後白河法皇にその事を伝え、法皇の勅命で崇徳天皇を祀る光明院観勝寺が創建された。
寺は応仁の乱により荒廃したが、太秦安井から蓮華光院が移建され、その際に金比羅宮の大物主神と源頼政を祀り、安井の金比羅さんと呼ばれるようになった。
明治後は神仏分離により寺は廃止、安井神社となったが親しまれていた安井金比羅宮と改めた。
崇徳天皇の怨念
崇徳天皇御廟所(京都市東山区祇園町)
安井金比羅宮の北側には崇徳天皇御廟所がある。崇徳の寵愛を受けた阿波内侍が崇徳の遺髪を埋めた塚を作ったと言われ、これが崇徳天皇御廟所と思われる。
現在の崇徳天皇御廟所は、明治天皇の勅命で創建された、淳仁天皇と崇徳天皇を祀る白峰神社が管理している。
粟田宮跡(左京区聖護院川原町?)
崇徳の死後、都に異変が起こり祟りと言われ、崇徳天皇・藤原頼通・源為義を祀る粟田宮が創建された。当初の粟田宮は白河北殿の跡(今の京都大学熊野寮)にあったとされ、鴨川の東岸の近くにあったが、水害に遭い聖護院の西北、現在の京都大学病院付近に移った。
その後応仁の乱で荒廃し廃絶したとされる。粟田宮に祀ってあったとされる崇徳院地蔵が、聖護院坊塔の積善院凖提堂に祀られている。
県神社(宇治市宇治蓮華)
平等院の近くにある県神社は都名所図会では藤原頼長を祀るとされる。6月の夜間に行われる県祭りで有名な神社。
桜塚(相国寺内)
保元の乱に敗れた藤原頼長は奈良へ逃げ、父の忠実に面会を求めるも拒否され、失意のうちに死去した。遺体は奈良で埋葬されたと言われる。
頼通の供養塔される桜塚は、粟田社があったとされる現在の京都大学熊野寮にあった。明治時代に入りここに紡績工場が作られ、塚は敷地内となった。明治44年(1911年)に現在のカネボウに吸収され、工場の拡張により塚は相国寺に移された。
源為義塚(下京区朱雀裏畑町)
乱に敗れた源為義は長男である為朝に投降するが、為朝によって斬首された。
斬首されたとされる七条千本通り(今のJR梅小路京都西駅)付近の場所に墓とされる塚ができた。権現寺と共にあったが、明治末期の鉄道開設により現在地となる西へ移動することとなった。
争乱再び・平治の乱
保元の乱を制し、後白河上皇の元で政治の実権を握ったのは信西(藤原道憲)だった。しかし一緒に戦った源義朝には思った手柄がなかった。1159年(平治元年)、不満に思った義朝は藤原信頼と共謀して、平清盛が熊野詣に行っている間に後白河法皇と二条天皇を捕まえた。
信西入道塚(宇治田原町大字立川橋ノ本)
信西は現在の宇治田原に逃げるも源氏の追手によって殺された。大道神社天神宮の前に住民によって塚が作られた。
平清盛が都に戻ると形勢は逆転し、後白河天皇と二条天皇を奪還した。源頼政の裏切りにもあり、義朝側は追い詰められた。義朝は東国に逃げるも逃亡先で殺されてしまう。信頼も捕えられ六条河原で斬首された。
悪源太義平旧跡(中京区菱屋町?)
義朝の息子である源義平は悪源太と言われるほどの勇猛な武士であった。乱後は飛騨に逃げるも清盛暗殺を企て、都に戻ったが捕まり六条河原で斬首された。この乱に義朝の子である頼朝がいたが、死罪とならず伊豆へと流罪となった。
平治の乱が終わり、有力な人物がいなくなると清盛の政治への実権は強くなった。
後白河法皇と平清盛の蜜月
新日吉社(東山区妙法院前)
新熊野神社(東山区今熊野椥ノ森町)
蓮華王院・三十三間堂(東山区三十三間堂廻町)
後白河上皇は応保元年(1161年)に、今の三十三間堂一帯に法住寺殿を作り院政の拠点とした。永暦1年(1160年)に坂本の日吉神社を勧進した新日吉神宮(創建時は今の智積院の南側、再興と移転を繰り返して豊国廟の西側になる)、熊野神社を勧進した新熊野神社を創建し、長寛2年(1164年)に後白河上皇の勅願で平清盛・重盛が蓮華王院を造進した。
仁安2年(1667年)に清盛は太政大臣となった。娘の建礼門院が高倉天皇の妃となり清盛は皇族と親戚となったが、院政を行っていた後白河法皇との軋轢が強くなり、平家打倒の機運が高まるようになる。
発覚した鹿ヶ谷の謀議
鹿ヶ谷(左京区鹿ヶ谷桜谷町)
治承1年(1177年)、権力が増大した平清盛の平家に対し、後白河法皇の側近である俊寛は鹿ヶ谷の山荘で打倒平家の密会を企てた。しかし密告されて捕まり鬼界ヶ島(硫黄島)へ流された。同じく流された藤原成経と平康頼は後に赦免で京都に戻ったが、俊寛には赦免が出ず、一生島から出れなかった。
治承2年(1178年)に安徳天皇が産まれた。こうして清盛は天皇家の外祖父の立場になった。
治承3年(1179年)、清盛は後白河法皇との衝突により後白河法皇を幽閉し、反平家を一掃して安徳天皇を即位させ平家一門の独裁政権を誕生させた。
以仁王と源頼政の挙兵
源頼政は保元・平治の乱で平清盛側につき。源三位の位に就くほどの平家側の武将だった。
頼政は近衛天皇が怖がった鵺退治の伝説でも有名である。
治承4年(1180年)4月、後白河法皇の第3皇子である以仁王が平家打倒で挙兵を計画し、頼政もこれを勧めることになった。しかし計画が漏れ、滋賀の園城寺から醍醐を通って南都の興福寺へ逃走するも平重衡らの追討にされた。宇治橋で戦うも劣勢となり、頼政は以仁王を逃し負けを悟ると辞世の句を読んで自決した。平等院に頼政の墓と辞世の句を読んだ場所として扇の芝がある。
高倉神社(木津川市山城町綺田神ノ木)
頼政が宇治橋で時間稼ぎをしている間に以仁王は逃げたが、木津川市(旧山城町)の高倉神社の場所にあったといわれる光明山寺の鳥居の前で流れ矢に当たり討死したとされる。
平家は政治の頂点に立ち、清盛の義兄である平時忠の「平家にあらずんば人にあらず」という言葉が出るほどだった。
この年の6月に清盛は拠点だった安徳天皇を連れて福原に遷都する。だが、周囲の同意が得られず平家は孤立してしまう。8月に伊豆で源頼朝が平家追討を挙兵し内乱状態になり、頼朝と平維盛が戦った富士川の戦いで頼朝側が勝った。清盛は不利と思い11月に都を京都に戻した。
無念を思う平清盛
水薬師(下京区西七条石井町)
翌年の治承5年(1181年)1月に清盛は平重衡に命じて南都の焼き討ちを行い東大寺の大仏は焼失した。そして2月に清盛は大仏の呪いと言われる高熱にうなされた。水薬師には水をかけ熱病を治した伝承があるが、清盛は遺言に頼朝打倒を願ってこの世を去った。
しかし、清盛の遺言とは逆に頼朝の戦略は弟の義経の活躍により勝利を重ね、平家は滅亡へと進むことになる。
参考文献
京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ
京都・観光文化検定試験公式ガイドブック(淡交社)
フィールド・ミューアジム京都
京都観光ナビ
各寺社の公式サイト・参拝のしおり・由緒書き
源平1000人(世界文化社)
宇治田原町いいとこガイド
木津川市観光ガイド
※各説明文に関しては史料などを参考に、独自に考察しています(2021.02/26改訂)。