平安貴族の信仰を集めた文学の聖地「石山寺 ―密教と観音の聖地―」

滋賀県大津市にある大津市歴史博物館では、企画展「石山寺 ―密教と観音の聖地―」が開催されています。

大津市歴史博物館

紫式部が源氏物語を執筆したと言われる石山寺ですが、寺の開創や今での歴史などあまり知られていません。今回の展示では数多くの寺宝や文献で石山寺の全てがわかると言っていいほどの展示がされています。

大津市歴史博物館

展示は7章で構成されており、1章目は石山寺の開祖と本尊について解説されています。石山寺は奈良時代に聖武天皇の勅願によって、東大寺と関係が深い良弁が創建しました。本尊である観音三尊像は土で作られた塑像でしたが、承暦2年(1078)に本堂が焼失した際に破損して断片しかありません。この本尊に関しての考察は後の章でも登場します。

前期の見どころの一つは仏の臨終の様子を描いた仏涅槃図です。他の寺院の涅槃図とは変わった構成の図柄はとても興味深いものでした。

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2章目では菅原道長の孫の淳祐内供が三代座主となり、真言宗になります。展示されている彼の自筆と言われる国宝・薫聖教(においのせいきょう)は、石山寺座主でしか見ることのできない門外不出の経典です。

石山寺は座主を醍醐寺や仁和寺と交替しながら、真言密教と観音信仰の聖地として、平安貴族達がこぞって石山詣に訪れるようになっていきました。藤原道長も熱心に参拝したとされています。

大津市歴史博物館

第三章では武家社会となった戦乱の時代の石山寺の様子が紹介されています。この頃から世相が不安定となり、石山寺を末寺と主張する東大寺と延暦寺の対立に、仁和寺出身で座主守恵による石山寺の寺僧への弾圧による守恵暗殺未遂があり、寺の体制が混迷していきます。南北朝時代に勢多(瀬田)周辺での争いに軍勢が乱入して寺宝が失われ、足利義昭と織田信長の石山での戦いに巻き込まれて疲弊しました。

戦乱が治り豊臣秀吉によって石山寺は再興されていき、江戸時代には仁和寺の末寺となりました。

大津市歴史博物館

4章では江戸時代に西国三十三所の霊場巡りの一つとして、観音信仰が紹介されています。江戸時代には多くの民衆が巡礼をして、巡礼札を寺の柱に打ち付けました。観音信仰に関する書物も多数つくられ、当時の様子がわかります。

また、失われた本尊を2体の観音像から本来の姿を考察する展示も紹介されています。第5章は仏画、第6章は仏像が展示されています。

大津市歴史博物館

第7章では全7巻となる石山寺縁起絵巻を全て公開する展示です。会期中4回に渡って展示替えをするので、これだけでも何回も来館することになるでしょう。石山寺縁起絵巻は鎌倉時代から作られたものの3巻目以降は制作が中断し、室町時代に5巻が作られのちに4巻が、江戸時代に6巻と7巻が作られるという異例の制作期間を経て形となりました。

そのため、400年に亘って時代毎に絵柄の変遷が変わるという類を見ない絵巻物です。

大津市歴史博物館

絵巻には紫式部が源氏物語を執筆する様子が登場しますが、取材時には石山寺に帰依した藤原道長が訪れる様子が描かれています。大河ドラマのように紫式部と藤原道長の関係を強く感じるシーンです。

大津市歴史博物館

絵巻の中には最長9mにも及ぶ絵も描かれており、石山寺縁起絵巻が時代を超えてどれほど力を入れて制作されたかわかるでしょう。

大津市歴史博物館

紫式部のイメージが強い石山寺でしたが、展示では真言密教と観音霊場という二つの信仰を待ち合わせた霊験ある寺院というのがわかりました。そのため、平安時代に文章の才能で出世が決まる貴族の文学に度々登場したのでしょう。

前期後期で展示の大半が変わるほどの規模の展示は、今後はないかもしれません。また、展示の詳しい解説が聞けるギャラリートークも必聴です。圧倒される寺宝を目の当たりにして、再び石山詣が再興することを感じた展示でした。

平安貴族の信仰を集めた文学の聖地「石山寺 ―密教と観音の聖地―」

場所 大津市歴史博物館

会期 令和6年(2024年)10月12日(土曜)から11月24日(日曜)まで
   [前期]10月12日(土曜)から11月4日(月曜・祝日)まで
   [後期]11月6日(水曜)から11月24日(日曜)まで
   ※一部作品は、前期・後期内でさらに期間を限定して、展示替や巻替をおこないます。