第12回・菅原道真の怨霊は天神信仰へ(903〜947年)

延喜元年(901年)太宰府に流された菅原道真は不憫な生活を強いられ都へ戻ることを渇望するが、それは叶わず2年後の延喜3年(903年)に死んでしまう。
その直後から、道真追放に関わった藤原家の一族が相次いで死に、怨霊を鎮めるべく右大臣に戻し左遷も撤回される。しかし道真の怨霊と思われる怒りは、延長8年(930年)に清涼殿に落雷が落ち炎上することにより、さらに恐れるようになった。
太宰府でも道真を葬った安楽寺(今の太宰府天満宮にあった)では「天満大自在天神」として祀るなど、北野天満宮が創建される間にも、複数で道真を祀るようになった。それほど道真の影響は大きく、京都には道真にまつわる寺社は数多い。

追放される道真の悲劇

飛梅

拾遺都名所図会第1巻 天明7年 ・1787年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第6巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

菅原道真が左遷され、太宰府に向かう際に残る伝承が飛梅である。菅原道真が左遷された際に詠んだ句、

東風(こち)吹かば にほひをこせよ 梅の花
       主(あるじ)なしとて 春なわすれそ

道真の屋敷に咲いていた梅が、後を追って梅の一枝が太宰府に飛んだという伝承がある。捨拾都名所図会は菅大臣神社の梅の木がそれとしているが、都名所図会では北野天満宮の東あった金山天王寺(聖徳太子が大阪の四天王寺、三重県伊勢と東京谷中と四つ建てた天王寺の一つ。明治7年(1847年)に廬山寺と合併)の前に、道真の邸宅とされる紅梅殿があったようだ。

長岡天満宮(長岡京市)

都名所図会第4巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第4巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
拾遺都名所図会第4巻 天明7年 ・1787年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

長岡天満宮はもともとは菅原道真が在原業平らと遊んだ地で、太宰府に向かう名残として立ち寄り、
我が魂長く此の地に留まるべし
と言い残したという。道真死後、東小路祐房ら道真の配下が、道真が彫った木像を祠を建てて祀ったのが由来とされる。
社殿は応仁の乱で焼失と再建をし、桂離宮を造営した八条宮智仁親王の御領となり、寛永15年(1638年)に八条ヶ池が作られた。

都を襲う道真の怒り

水火天満宮(上京区扇町)

都名所図会第1巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

真の死後に水害・火災が起こり、延長元年(923年)に醍醐天皇の勅命により、道真公の師であった延暦寺の尊意僧正が「水火の社 天満大神」を賜り、道真公の神霊を勧請して創建した。最初の天満宮とされる。
もとの所在地は堀川通西の上天神町にあったが、昭和25年(1950年)に堀川通の拡張工事で移転した。
また、承平4年(934年)にも吉祥院に吉祥院天満宮が作られた。

文子天満宮(下京区間ノ町通花屋町下る)

拾遺都名所図会第1巻 天明7年 ・1787年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

北野天満宮(上京区馬喰町)

都名所図会第6巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第6巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第6巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

菅原道真の乳母の多治比文子が自宅に祀ってた道真の祠を、道真のお告げにより北野に祀った。
または巫女であった文子への道真の御神託と、同じ時期に近江の比良宮の神(みわの)良種の息子へのお告げにより、北野に移り住んだ文子と朝日寺の僧最珍が北野に天歴元年(947年)に祠を建てた。天徳3年(959年)に藤原師輔により社殿が造営された。
境内にある東向観音寺は、太宰府から勧請した道真の自作による十一面観音像が安置されている。
北野天満宮は道真が太宰府に流されても国家の安泰と身の潔白を祈り、死んで怨霊となり御霊として祀ることにより、道真の精神と学問・文芸の神としての民衆の天神信仰と、足利氏の支持や豊臣秀頼による本殿造営と寄進により栄えた。
豊臣秀吉による「北野大茶会」は、民衆の天神信仰をあやかったように思われる。

藤原家による他氏排斥は菅原家の左遷により繁栄し、摂関政治はのちの兼家・道長・頼道による磐石のものとなった。
しかし天神信仰は道真の不遇を知る庶民によって拡がった。それは権力者への民衆の心情なのかもしれない。

参考文献 
京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ
京都・観光文化検定試験公式ガイドブック(淡交社)
フィールド・ミューアジム京都
京都観光ナビ
各寺社の公式サイト・由緒書き
百人一首で京都を歩く

※各説明文に関しては史料などを参考に、独自に考察しています(2021.02/26改訂)。