邪馬台国と卑弥呼は何処に?魏志倭人伝って何が書いてあるの?弥生時代と古墳時代との違いとは?史跡や博物館を見て周って場所を考えてみる

邪馬台国の卑弥呼といえば、「魏志倭人伝」に書かれている倭の国を統治した女性の巫女で、弥生時代の2世紀後半から3世紀半ばの、西暦100年後半から200年中頃の人物だと言われてます。

大阪府立弥生文化博物館・卑弥呼像(大阪府和泉市)

この銅鏡を掲げている卑弥呼像は、大阪府和泉市にある大阪府立弥生文化博物館に展示されている像です。弥生文化博物館は弥生時代を扱う全国の唯一の博物館で、紀元前50年頃を復元した史跡池上曽根遺跡に隣接してます。

大阪府立弥生文化博物館(大阪府和泉市)

まずはこの博物館から、卑弥呼がいたとされる弥生時代はどのような時代だったのか尋ねてみましょう。

弥生時代はどんな時代か?

稲作の始まりとムラへの形成

大阪府立弥生文化博物館(大阪府和泉市)

縄文時代から弥生時代への最大の転換点は、稲作の技術が大陸から北九州へもたらされ、農耕が行われ始めたということです。稲作が始まった時期は不確定ですが、紀元前8世紀には形跡がありました。

大阪府立弥生文化博物館(大阪府和泉市)

北九州から日本国内へ稲作が普及し始めると、農耕を組織的に行う為に集落ができます。紀元前3世紀から各地でムラが形成され、それに伴い地域の首長が誕生します。

大阪府立弥生文化博物館(大阪府和泉市)

この時代は大陸からの技術が盛んにもたらされ、青銅器といった工業も発展し、各地で炉が作られ農耕道具に使われ始めました。

大阪府立弥生文化博物館(大阪府和泉市)

これらのムラではマツリという行事が行われるようになり、政治と共に自然崇拝や吉兆を占うシャーマニズムが発展します。

祭事に用いる道具が発展し銅鐸や剣といった青銅器が作られるようになりました。

大阪府立弥生文化博物館(大阪府和泉市)

こうしたムラでは稲作による米の備蓄が行われるようになり、また土器も大量生産され、物流に使われるようになり各地の往来が盛んになりました。

大阪府立弥生文化博物館・卑弥呼の館(大阪府和泉市)

地域によっては作物の出来に差が生まれると、それを強奪するようになり争いが行われます。そうした争いによりムラでは堀や木の塀を作り防御を固めます。これが環濠集落と呼ばれるものです。

弥生時代は国内・国外の活発な交流によって、文化の発達により政治的なパワーバランスが形成されていく時代でした。

紀元前50年頃の池上曽根の集落を尋ねてみる

史跡池上曽根遺跡・いずみの高殿(大阪府和泉市)

弥生文化博物館の北側にある池上曽根遺跡史跡公園は、南北約1500m・東西約500mになる環濠集落で、公園内は紀元前50年頃の弥生時代の集落を再現しています。集落内には様々な用途の建物があり、復元されたいずみの高殿は、儀式が行われる神聖な建物だったと考えられています。

史跡池上曽根遺跡・竪穴式住居(大阪府和泉市)

集落内の竪穴式住居。公園内では時代によって4種類の住居が復元されています。そのほかにも掘立柱建物や環濠も復元されています。

池上曽根弥生学習館(大阪府泉大津市)

公園の北側には、池上曽根弥生学習館があり、発掘された井戸の再現展示や土器や勾玉などのモノづくり体験ができます。

弥生時代の集落が、現代社会に通じる高度に組織化された集団だとわかるでしょう。

魏志倭人伝が伝える大陸から見た邪馬台国

こうした集落の形成により収奪の争いが続く戦いの時代となりました。そうした争いを止めるべく、力を持つ大陸の国に対して、後ろ盾を求める首長が現れ始めました。

金印が語る大陸との関係

大阪府立弥生文化博物館・金印のレプリカ(大阪府和泉市)

江戸時代に福岡市東区志賀島で見つかった金印は、中国が後漢の時代になる1世紀中頃、西暦57年に、皇帝光武から福岡市にあった奴国が朝貢して賜ったものとされており、「漢」「委奴」「国王」と彫られ、「かんのわのなのこくおう」と読まれます。

おそらくこうした朝貢が他の国でも行われ、権力の強さを表していたと考えられています。

魏志倭人伝に書かれている時代の倭国とは

吉野ヶ里歴史公園(佐賀県神埼郡吉野ヶ里町)

佐賀県の吉野ヶ里歴史公園公園には、魏志倭人伝を紹介するコーナーがあります。

3世紀中頃の日本を伝える魏志倭人伝は、正しくは30巻になる「魏書烏丸鮮卑東夷伝」の中の「倭人条」という項目の一つです。中国の三国時代から統一された西晋(せいしん)時代の歴史書を手がけた蜀出身の撰者である陳寿が記したもので、ちょうど卑弥呼がいた時代に書かれました。

2000文字で書かれた文章の中に「邪馬台国の成り立ち」「卑弥呼の容姿」「魏国との交流」「倭国の王と認め金印紫綬や銅鏡(三角縁神獣鏡)等を与える」「魏から邪馬台国への行き方」「卑弥呼の死後」が書かれています。

吉野ヶ里歴史公園(佐賀県神埼郡吉野ヶ里町)

倭国では2世紀の終わり・西暦100年後半から当時の内乱が起こり、それを治める為にこれまでの男王から女性の卑弥呼が王として周辺国の共立から邪馬台国が成立したとされます。隣国中国でも西暦220〜280年にかけて蜀(しょく)・魏・呉が三国で争う騒乱の時代で、朝鮮半島は楽浪郡により大陸に支配されていました。卑弥呼は倭国内の邪馬台国の地位の向上を狙い3世紀中頃の西暦239年に魏に使者を送り、倭国の王として認めてもらいます。

しかし、国内の拘奴国(つなこく)と争うようになり、248年に卑弥呼が亡くなると国内は再び騒乱となり、卑弥呼の同宗(一族)の13歳の壱与が女王となりました。壱与は西暦266年に中国を統一した西晋(せいしん)に朝貢(ちょうこう)したとされます。

邪馬台国論争の論点とは?

邪馬台国があった2〜3世紀の日本ではまだ言語を記す術がなく、魏志倭人伝が唯一の文献資料となります。そのため国内側の裏付け資料がなく、また魏志倭人伝自体が大陸側の視点で書かれているため情報の信憑性を疑ってみる、という必要もあり邪馬台国論争が色々な解釈ができた理由になります。

邪馬台国の所在地は佐賀県吉野ヶ里町の吉野ヶ里遺跡を中心とする北九州説と、奈良県桜井市の箸墓古墳を卑弥呼の墓とする畿内説として論争が続いていますが、論点は次になると考えられています。

弥生時代と古墳時代の変わり目 

箸墓古墳(奈良県桜井市)

弥生時代の終焉と卑弥呼の死亡時期に近い、卑弥呼の墓とされる奈良県桜井市にある3世紀中頃の箸墓古墳が、古墳時代の始まりとすると、両時代の変換期がどのようにして行われたのか?
古墳造営というのが4世紀の倭の五王の大和朝廷成立と関係するなら、邪馬台国は国家成立の始まりとなるのか?

魏志倭人伝による位置

大阪府立弥生文化博物館(大阪府和泉市)

魏志倭人伝によると、朝鮮から海を渡り「それからまた南に一海を渡ること千余里で一支国に到着する。」とある対馬を経由して、「また一海を渡ること千余里で、末盧国に到着する。」壱岐の末盧国(福岡県唐津市)から九州に入る。
「そこから東南に陸行すること五百里で、伊都国に到着する。」伊都国(糸島市)という倭国の玄関というべき国に入る。これから先は、東南、奴国にいたるのに百里。」で金印で有名な奴国(福岡市)までが邪馬台国の支配下とされている。
しかし「また南、投馬国に至るのに水行二十日。」で海を渡ることになり、九州全域か南を現代の東方と解釈して山口県防府市や福山市、出雲とする説となり、さらに「また南、邪馬台国に至るのに水行十日・陸行一月。ここが女王の都するところで、…」となると奈良まで行くという説となる。
全国に邪馬台国を主張する根拠は、この道程のあやふやさにあるのです。

三角縁神獣鏡とは何か?

大阪府立弥生文化博物館(大阪府和泉市)

三角縁神獣鏡は、大陸から賜った宝物と言われ、古墳から発掘された際に出土する副葬品の一つです。古代日本では地方の権力者が埋葬される際に中央政府から渡されるものとされ、枚数により権力を表すとされています。

魏からもらったとされる三角縁神獣鏡は各地の古墳から出土し、邪馬台国の手がかかりとされてきました。特に昭和28年に京都府木津川市(旧山城町)で線路の法面改修の際に三角縁神獣鏡が30面以上が出土し、邪馬台国論争の発端となりました。
また、平成9・10年の調査で奈良県天理市の黒塚古墳か33面の鏡が出土し、こちらも卑弥呼の墓と騒がれました。こうした鏡や銅剣という出土品が権力のの強さを表すものと考えられています。

弥生時代のムラ集落がクニへと変貌する過程でみると邪馬台国はその始まりと言えるかもしれません。各地の博物館・遺跡公園や古墳公園を巡りながら、考察してみます。

広大な弥生集落、佐賀県の吉野ヶ里歴史公園

吉野ヶ里歴史公園は九州新幹線新鳥栖駅から長崎本線乗り換えで、10分ほどで吉野ヶ里公園駅に着きます。公園敷地は105ヘクタールと広大で、駅から公園の入り口までは距離があるので、歩くのが辛そうなら駅にレンタサイクルがあります。

サファリパークみたいな公園内

吉野ヶ里歴史公園(佐賀県神埼郡吉野ヶ里町)

遺跡公園は四つのゾーンに分かれていて、入り口ゾーン・環壕集落ゾーン・古代の原ゾーン・古代の森ゾーンとなっています。

吉野ヶ里歴史公園(佐賀県神埼郡吉野ヶ里町)

全敷地内を歩いての移動は困難なので、公園内には無料巡回バスが走っています。ちなみに自転車での移動はできません。

吉野ヶ里歴史公園(佐賀県神埼郡吉野ヶ里町)

バスに乗ると公園内はサファリパークといった規模で、復元施設や資料館、体験施設に発掘現場などを見て回るにはまる一日はかかります。

復元された吉野ヶ里の環濠集落とマツリを司る建物

吉野ヶ里歴史公園(佐賀県神埼郡吉野ヶ里町)

入り口ゾーンから近い環濠集落ゾーンは北内郭・南内郭に倉と市、中と南のムラに復元建物を設置して、遺跡が最も繁栄していた様子を再現しています。

吉野ヶ里歴史公園(佐賀県神埼郡吉野ヶ里町)

また、展示室もあり発掘品といった資料を見ることができます。

吉野ヶ里歴史公園(佐賀県神埼郡吉野ヶ里町)

展示室にある人骨の入った甕棺。この人骨には頭部が無く体に傷があるようで、集落間の戦いで戦死し、首を持ち去られたと思われる埋葬者です。弥生時代が戦乱の時代であったと裏付ける資料です。

吉野ヶ里歴史公園(佐賀県神埼郡吉野ヶ里町)

北内郭には政治といったマツリごとが行われる巨大な祭事の建物があり、建物内には人形を配置して様子が表現されています。

吉野ヶ里歴史公園(佐賀県神埼郡吉野ヶ里町)

建物内に上がると首長と上級者達の集まりが再現されています。

吉野ヶ里歴史公園(佐賀県神埼郡吉野ヶ里町)

3階に上がると巫女が祈りを捧げて神託を伺っている様子が再現されています。

魏志倭人伝では卑弥呼は年配で、夫を取らず弟が政治のやり取りをし、決して人前では顔を出さなかったとあります。侍女が1000人仕え男性が一人だけ給仕し、卑弥呼のいる部屋の建物の入り口には武器を持った守衛が警備していたとされます。
弥生時代ではシャーマニズムが集落の活動の中心でした。そのため巫女といった神託者は重要な地位にあったのです、

墳丘墓の形態となる弥生時代の墓

吉野ヶ里歴史公園(佐賀県神埼郡吉野ヶ里町)

北内郭の北側には集落の歴代の王が埋葬さていたと思われる北墳丘墓があります。

吉野ヶ里歴史公園(佐賀県神埼郡吉野ヶ里町)

土でできた丘に見えますが実は発掘地を展示するための建物で、14基の甕棺が出土したそのままの状態で展示されています。

吉野ヶ里歴史公園(佐賀県神埼郡吉野ヶ里町)

こういう砲弾の形状の甕に遺体を入れて副葬品と共に埋葬されました。

吉野ヶ里歴史公園(佐賀県神埼郡吉野ヶ里町)

墓のエリアではこうした甕棺が多数埋葬されて、死者を弔う習慣があったことがわかります。近年になって北墳丘墓の近くの「謎のエリア」から石棺墓が発掘され、邪馬台国時代に埋葬されたと想定されています。古墳時代の石棺へと変化していく過程かもしれません。

まだまだ施設がある吉野ヶ里歴史公園

吉野ヶ里歴史公園(佐賀県神埼郡吉野ヶ里町)

遺跡公園の北に位置する古代の森ゾーンの古代の森体験館に着きました。ここでは植物を使った体験プログラムに参加できます。

吉野ヶ里歴史公園(佐賀県神埼郡吉野ヶ里町)

他には前に紹介した魏志倭人伝の解説コーナーがあり、書かれている内容がよくわかりました。邪馬台国論争は魏志倭人伝の解釈と発掘の成果を照らし合わせる、地道な研究が大節と思いました。

吉野ヶ里歴史公園(佐賀県神埼郡吉野ヶ里町)

吉野ヶ里歴史公園は他にもたくさんの見所があるので、是非時間に余裕を持って見学してみてください。北九州には他にも金印のある福岡市博物館や稲作が始まったとされる板付遺跡があります。

古墳時代の始まり、メガロポリス纏向遺跡

邪馬台国の有力な場所とされる奈良県桜井市は、奈良盆地の南東に位置します。ここには古墳時代の始まりとされる箸墓古墳ほか、多数の古墳があり大和朝廷の始まりの地ではないかと言われています。

国内最大規模を誇る建物群

纏向遺跡(奈良県桜井市)

纏向遺跡は3世紀中の弥生時代から古墳時代へと変わる多数の史跡がある地域です。現在では住宅地と田んぼが広がっているので想像ができませんが、遺跡の範囲は南北約1.5km・東西約2kmと広大で、遺跡の発掘は2パーセントに満たないまだまだ解明されていない場所です。

纏向遺跡(奈良県桜井市)

JR桜井線巻向駅が纏向遺跡の最寄駅です。西へ線路を渡るとトイレのある広場が発掘で判明したメクリ1号墳で、四角を組み合わせたこの遺跡唯一の前方後方墳です。3世紀後半に造営されたようですが、前方後円墳発祥の遺跡に前方後方墳が造営された珍しい例です。

纏向遺跡(奈良県桜井市)

JR巻向駅の北側には発掘で判明した柱のあった場所に復元柱が建てられています。この辻地区では建物群と祭祀土坑群が発掘されており、ここが纏向遺跡の中心だったと思われています。建物は3世紀前半に建てられ、国内最大級の大きさでした。しかし3世紀中頃には建物の柱が抜き取られ廃絶したと考えられています。

ここから纏向遺跡の代表的な古墳群を回りましょう。

初期の古墳が点在する纏向遺跡

纏向石塚古墳・纏向遺跡(奈良県桜井市)

西に行くと纏向石塚古墳があります。前方後円墳ですが、第二次世界大戦中に高射砲陣地の設営のため上部が削られてしまい石室はありません。築造時期は3世紀前半か後半と意見が分かれています。

勝山古墳・纏向遺跡(奈良県桜井市)

隣にあるのが勝山古墳で、前方後円墳で築造時期は3世紀中ではあるものの詳細な年代は不明です。

矢塚古墳・纏向遺跡(奈良県桜井市)

これらの南側にあるのが矢塚古墳です。前方後円墳で土器の発掘から3世紀中頃が下限だろうと考えられています。

東田大塚古墳・纏向遺跡(奈良県桜井市)

南に行くと東田大塚古墳があり、前方後円墳で遺構調査から3世紀後半であると判明してます。

箸墓古墳・纏向遺跡(奈良県桜井市)

南東に行くと前方後円墳の箸墓古墳に着きます。倭迹迹日百襲姫命の大市墓となっており、宮内庁で管理されていて、本格的な発掘調査はされていません。周辺からの発掘品により3世紀中頃だろうと考えられています。

箸墓古墳・纏向遺跡(奈良県桜井市)

卑弥呼の墓であると考えられているのは、魏志倭人伝に卑弥呼の墓の大きさが書かれており、箸墓古墳の全長280mの大きさに近いからです。

箸墓古墳はそれ以前の古墳に比べて前方後円墳として形が整った古墳になります。箸墓古墳が古墳時代の始まりと言われている理由です。となると、弥生時代の墳丘墓が前方後円墳の形となっていったのかが大きな謎です。

ホケノ山古墳・纏向遺跡(奈良県桜井市)

最後に東側の丘に行くと前方後円墳のホケノ山古墳(国指定史跡)があります。ホケノ山古墳は出土遺物が多く、そこから3世紀中頃と考えられています。

ホケノ山古墳・纏向遺跡(奈良県桜井市)

埋葬施設は二箇所で、後円部と前方部東斜面には埋葬施設が復元されています。

ホケノ山古墳・纏向遺跡(奈良県桜井市)

ホケノ山古墳は高台にあり、纏向遺跡が展望できます。本格的な古墳時代の古墳は埴輪・葺石で古墳を形造ります。纏向遺跡の古墳群はこれらはないのですが、しかしホケノ山古墳だけは葺石が敷かれていました。
こうした古墳群で時代毎に古墳づくりが試行錯誤がされていたかもしれません。

謎だらけの纏向遺跡を知る手掛かり

桜井市はこのほかにも様々な史跡があるのですが、情報を集めるのに桜井市立埋蔵文化財センターに行ってみましょう。

桜井市立埋蔵文化財センター(奈良県桜井市)

桜井市立埋蔵文化財センターは大神神社の大鳥居の前にあり、ここでは発掘品や地域の案内・解説が展示されています。

桜井市立埋蔵文化財センター(奈良県桜井市)

古代の纏向遺跡はこんな様子でした。箸墓古墳が群を抜いて大きいことがわかります。

桜井市立埋蔵文化財センター(奈良県桜井市)

纏向遺跡の出土品からは、全国から運ばれたと思われる土器が出土し、日本には自生していなかった染料に使われるベニバナ花粉が国内最古の事例として発見されました。他にもたくさんの発掘品に「掘れば何か見つかる」と言われるほどの遺跡です。

桜井市立埋蔵文化財センター(奈良県桜井市)

纏向遺跡は巨大な集落にも関わらず、稲作の水田が無く土木工事用の器具の出土ばかりです。また発掘される土器には他の地域の作り方で桜井市の土で作られたと思われる土器もあります。こうしたことから、食糧といったものは地方から来る大量の土器で運ばれ、また工業従事者達も土器を纏向に集まる、政治を動かす集権都市と考えられています。

纏向遺跡(奈良県桜井市)

纏向遺跡は古墳・大型建物・出土品から日本国内において大和朝廷の発端一つであることは間違いなく、邪馬台国がここにあったという根拠の一つとなっています。

大神神社(奈良県桜井市)

桜井市には日本書紀や古事記にも登場する最古の神社と言われる大神神社があります。箸墓古墳の埋葬者とされる倭迹迹日百襲姫命は孝霊天皇の皇女で、大神神社の背後に聳え立つ三輪山に祀られている大物主大神の夫されています。
卑弥呼が神様と近しい関係として、祀られているかもしれません。

唐古・鍵遺跡史跡公園(奈良県田原本町)

また、纏向遺跡を考える際に参考にする遺跡が北西にある田原本町の唐古・鍵遺跡です。弥生時代前期から700年も続いた巨大な集落で、ここにも全国から物資が集まった形跡があります。

唐古・鍵考古学ミュージアム(奈良県田原本町)

唐古・鍵考古学ミュージアムには遺跡から発掘された出土品が展示されています。

唐古・鍵遺跡は弥生時代の終わりに集落が放棄され、同時期に纏向遺跡となる集落が突如現れました。二つの集落は大和川で繋がっていて、建物などの資材を川を使って運搬して急いで移転されたのかもしれません。

こうした集落の統廃合・移転はクニ作りを示すものと思われています。

神秘の三角縁神獣鏡の世界

魏志倭人伝に書かれている魏が卑弥呼の使者に渡した銅鏡は100枚とされ、この鏡の行方が邪馬台国論争の議論の一つとなっています。

鏡の裏に描かれる意味

アスピア山城(京都府木津川市)

そもそも三角縁神獣鏡とは何か、というと銅の平面に錫かメッキを施して鏡とし、反対側は紋様を施して祭事に使われました。紋様の意味は古代中国の神仙思想を表しており、不老不死の神である東王父・西王母が描かれ、神獣の図柄や長寿や子宝、出世といった願い事が叶うようと銘文が書かれています。また鏡の縁が三角に鋭く作られているため、三角縁と呼ばれています。

アスピア山城(京都府木津川市)

このような鏡には年号や国名が書かれ時代の特定ができます。三角縁神獣鏡がとても大事な情報が書かれているのです。

偶然発掘された椿井大塚古墳

椿井大塚古墳(京都府木津川市)

椿井大塚古墳はJR奈良線の棚倉駅と上狛駅の中間にあります。

椿井大塚古墳(京都府木津川市)

古墳は明治29年に鉄道が古墳とはわからず敷設された際に東西に分断され、昭和28年に線路幅の拡幅工事の際に偶然に石室が発見されました。発見時は工事関係者に乱掘されていたのを、京都大学文学考古学室により正確な調査がされ、初めて巨大な前方後円墳であるとわかりました。

椿井大塚古墳(京都府木津川市)

その後幾度も調査が行われ古墳の造営が3世紀後半と判明し、全長は170mと箸墓古墳と相似してその3分の2の大きさと邪馬台国の時代と近いものでした。

アスピア山城(京都府木津川市)

棚倉駅の近くのアスピア山城には椿井大塚古墳と三角縁神獣鏡の特別展示室があります。普段は閉鎖されていますが、図書館の受付で声をかけてください。

アスピア山城(京都府木津川市)

発掘品のレプリカが32面展示されており、見比べることができます。椿井大塚古墳のすべての銅鏡は大陸から来た舶載鏡とされています。他の古墳では国内で作られた仿製鏡もあり、全国の古墳で出土した500枚以上の中には、同じ型を使って作られた複製品が多いです。

アスピア山城(京都府木津川市)

石室の発見時から考古学者の小林行雄氏の、卑弥呼と邪馬台国に関する古墳であるという説の発表により、論争の発端の一つとなりました。この地域の有力者であった被葬者が、大和の国とどのような関係にあった興味のあるところです。

纏向遺跡から近い黒塚古墳

黒塚古墳(奈良県天理市)

三角縁神獣鏡が多数出土したもう一つの古墳が、JR桜井線の柳本駅の東にある天理市の黒塚古墳です。全長が134m、造営時期が3世紀後半と推定されています。

黒塚古墳(奈良県天理市)

黒塚古墳は当初の形でほぼ良好にとどめていて、非常に参考になる古墳です。

天理市立黒塚古墳展示間(奈良県天理市)

古墳に隣接している天理市立黒塚古墳展示館には、復元された竪穴室石室が展示されており、被葬者の石室の周りにコの字に33面の銅鏡が置かれていました。

天理市立黒塚古墳展示間(奈良県天理市)

出土した33面の銅鏡のレプリカが展示されており、見比べることがてきます。

黒塚古墳(奈良県天理市)

弥生時代と古墳時代の変換点も議論が尽きない論点ですが、その地域の権力者の様子を探る上で、古墳や埋葬物は重要な資料になります。

北九州と畿内という離れた地域でクニの中心がどちらに置かれるようになったのか?はたまた出雲といった別の地方なのか?謎はつきません。

クニが大和朝廷となった空白の4世紀から考える事

古墳が全国に作られるようになった西暦300年から400年までの4世紀は記録の無い空白の時代と言われ、大和朝廷につながるようなクニがどこにあったかが、卑弥呼の次の壱与が治めていた時代の邪馬台国を考える上で、重要な要素と言えるでしょう。

天皇の祖となる人物はどこから来たのか

崇神天皇陵(奈良県天理市)

黒塚古墳の東側には崇神天皇陵こと4世紀後半の行燈山古墳があり、崇神天皇は第10代天皇で大和朝廷の創始者とされています。

奈良県立橿原考古学研究所附属博物館(奈良県橿原市)

天皇の祖となる場所として、奈良県橿原市にある橿原神宮は、日本の初代天皇・神武天皇の陵墓を祀る神社です。
近鉄畝傍御陵前駅の西にある奈良県立橿原考古学研究所附属博物館は、奈良県の旧石器時代から始まり縄文時代と弥生時代、古墳時代を経て初めての都とされる飛鳥時代から藤原京〜平城京の間に複数回の都の遷都を経て、平安時代に移るまでの展示がされています。

奈良県立橿原考古学研究所附属博物館(奈良県橿原市)

弥生時代のシャーマンの儀式のシーンが人形で再現されています。

奈良県立橿原考古学研究所附属博物館(奈良県橿原市)

古墳時代の埴輪も多数展示されています。奈良の古代研究には欠かせない博物館です。

奈良県立橿原考古学研究所附属博物館(奈良県橿原市)

奈良盆地には唐子・鍵遺跡や纏向遺跡ほかにも多数の遺跡があり、古墳も解明されていない場所が多くあります。

謎が深まる富雄丸古墳の長大な蛇行剣

富雄丸古墳(奈良県奈良市)

奈良市の西側にある富雄丸古墳は、4世紀後半と卑弥呼の時代より約100年後の古墳ですが、過去に調査された墳頂部の下にある造出しから埋葬施設が新たに発掘され、そこから過去に例のない東アジア最長の蛇行剣と鼉龍文盾形銅鏡が発掘されました。同じ古墳に二人の被葬者が埋葬されているのは、ホケノ山古墳と同じ様式と言えます。

奈良県立橿原考古学研究所附属博物館・富雄丸古墳蛇行剣(奈良県橿原市)

蛇行剣は237cmと奈良県北原古墳の84.6cmの蛇行剣よりはるかに長く、中国の一番長い鉄剣の138cmを遥かに凌ぎます。国家間のパワーバランスを考えても異例とも言える長さで、被葬者がどんな人物かがさらなる謎となりました。

日本でムラからクニへと変革していく変換点として卑弥呼の存在は欠かすことができません。全国にもまだまだ解明されていない遺跡があり、将来そこから新たな発見が出てくるでしょう。
ここに紹介した遺跡以外でも重要な地域もありますので、訪ねてクニの誕生を探ってみてください。

施設案内