第11回・菅原道真の足跡(845〜903年)
現在でも天神信仰が厚い菅原道真は承和12年(845年)に生まれ、18歳に文章生に合格し、33歳で文章博士となった。その才覚により宇多天皇に寵愛され政治・学問に才覚を発揮し、出世して右大臣に登り詰める(昌泰2年・899年)。しかし、それに嫉妬した左大臣藤原時平が醍醐天皇への讒言による謀略により、太宰府に左遷させられ(延喜元年・901年)、延喜3年(903年)に59歳で死去した。
死後の菅原道真による祟りによる事変が発生し、道真の怨念を抑えるべく多数の天満宮が創建された。天神・天満を祀る神社は数多く、1万2000社を超えるといわれる。
出生地に関しては、菅原院天満宮・菅(かん)大臣神社・吉祥院天満宮の3つに伝承があり、確証はない。都名所図会には菅原院天満宮神社に関しては記載がないようなので、由縁がある錦天満宮も上げる。
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菅原道真誕生の地
吉祥院天満宮(南区吉祥院)
菅原道真の祖父、菅原清公が桓武天皇から領地としてもらい、延暦23年(804年)に遣唐使で航海中に暴風に遭い、同乗していた最澄とともに祈祷したところ天女が現れ暴風が収まった。遣唐使の任を終えて帰った清公が、天女への感激と喜びを吉祥院天女を彫り、安置した。
菅原道真の父、是善もここに住み、道真もここで生まれ、道真が18歳の時に宣風坊(五条西洞院)に転住した。
菅原道真の死後承平4年(934年)に朱雀天皇の勅命により天満宮として創建された。
都名所図会によると菅家の領地であり別荘として書かれている。
菅大臣神社(下京区仏光寺新町)
菅原道真の誕生地とも言われるが、ここは宣風坊と呼ばれる学問所で、菅家廊下と呼ばれる菅家の門人たちが多くいて、廊下で勉強するほどの人がいたという。道真の死後に神社が創建されたようで、広大な神域を持ち、鎌倉時代から南北朝の間に菅大臣神社と北に北菅大臣神社に分かれ、前者を天神御所または白梅殿社、後者を紅梅殿社と呼んでいた。
都名所図会によると是善の館として書かれている。また道真の誕生水もあるとされる。
菅原院天満宮神社(上京区下立売烏丸)・錦天満宮(中京区新京極錦小路)
菅原院天満宮神社があった場所にあったとされる菅原院には、菅家の三代が住んでいた、または是善の邸地で道真も誕生している。ここに歓喜光寺が建立されたが河原院に移り、のちに一社を設けた。
都名所図会には記載が見当たらないが、菅原院天満宮神社の場所は旧二条城(織田信長が足利義昭のために建てた武家御所)の敷地にあたる。寛永5年(1852年)の天満宮二十五社巡りに同じ場所と思われる菅原院天神が記載されている。
錦天満宮は当初、是善の旧宅に菅原院が創建され、道真の死後に源融の別荘跡の六条河原院に移し歓喜寺となった。300年後に後水尾天皇により天満宮を授与され、八幡の善導寺に土地を寄進し塩竃社を祀る歓喜光寺となり六条道場とも呼んだ。274年後に豊臣秀吉の命により時宗四条道場の金蓮寺の敷地に移り、今の錦天満宮となった。明治5年(1872年)に神仏分離令により歓喜光寺は東山五条の法国寺へ移転合併し、山科へと再移転することとなる。
菅原道真との由来は菅原院や、歓喜光寺が移転した際に近くにあった菅原道真の社を鎮守したとも言われる。都名所図会によると源融を祀るとあり、のちに天満宮を勧請したようだ。
このように菅原道真の出生地は明らかではなく、度重なる戦乱や大火により社殿や書物は焼失し、詳しいことはわからない。ただ3つの場所は道真の足跡を残すところである。
参考文献
京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ
京都・観光文化検定試験公式ガイドブック(淡交社)
フィールド・ミューアジム京都
京都観光ナビ
各寺社の公式サイト・パンフレット・由緒書き
天下人の城(京都市文化財ブックス)
※各説明文に関しては史料などを参考に、独自に考察しています(2021.02/26改訂)。