第10回・都の貴族の生き様、源氏物語の時代(およそ880年〜)
藤原家による摂関政治は 仁和4年(888年)の宇多天皇と藤原基経の諍い「阿衡の紛議」により、藤原家の権力は天皇よりも大きくなった。
武士の始まりである源氏や平氏性を名乗る貴族も現れる。
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源氏物語の舞台
河原院跡(下京区五条木屋町下がる)
源融(みなもとのとおる)は嵯峨天皇の皇子であったが臣籍となり源氏を名乗った。五条河原町周辺に邸宅を持ち、広大な敷地に陸奥塩釜の風景を模し、難波から海水を運んで塩焼きを楽しんだという。周辺にある河原や塩釜の地名の由来となった。
宇治川(宇治市)
藤原家に追い詰められた源融
清涼寺(右京区嵯峨)
源融は他にも宇治や嵯峨にも別荘を持った。元慶8年(884)年に、陽成天皇の後継を主張したが藤原基経に拒否され、嵯峨の栖霞観で隠棲、死後は寺となり清凉寺となった。河原院は宇多天皇が上皇となった際の御所となり、寺になったが荒廃した。宇治は藤原道長が譲り受け、子の頼道により平等院となった。
本覚寺(下京区五条富小路)
塩竃町の本覚寺に源融の像が祀られている。
政争の後の桜
仁和寺(右京区御室)
仁和寺は宇多天皇が父の光孝天皇の意思を継いで仁和4年(888年)に創建した。桜の名所として知られる。
墨染寺(伏見区深草)
藤原基経が死去した際、歌人・上野峯雄が歌を読んだところ桜が喪に服したように墨色に染まったという。それに因んで墨染と名付けられ、墨染桜と言われるようになった。
源氏物語が書かれた場所
紫式部の家
のちに紫式部が源融を光源氏のモデルにしたとされる源氏物語を書き、寛弘5年(1008年)に貴族の間で読まれ執筆家として名を馳せた。紫式部の邸宅のあった京極正親は現在の御苑の西側にある梨木神社から鴨川とされ、現在は廬山寺に碑がある。
紫式部の死後、至徳3年(1386年)に地獄で苦しむ紫式部の供養塔が千本ゑんま堂に建てられ、いつしか小野篁の横に紫式部の墓が建てられるようになった。
参考文献
京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ
京都・観光文化検定試験公式ガイドブック(淡交社)
フィールド・ミューアジム京都
各寺社の公式サイト・パンフレット
百人一首で京都を歩く
宇治市観光協会サイト
光源氏の愛した地・塩釜へ
京都市伏見区サイト
※各説明文に関しては史料などを参考に、独自に考察しています(2021.02/26改訂)。