戦国時代を終わらせた徳川家康の軌跡「上方の家康」展
大阪城天守閣では上方(京都やその周辺)での徳川家康の動静を史料で展示する、「上方の家康展」が開催されています。
※掲載写真は取材として許可を得て撮影しています。
大河ドラマとなった戦国時代終末期、織田信長の死後は豊臣秀吉が天下統一を果たし、秀吉の死後は家康が江戸幕府を開いたので、世間一般では江戸にいることが多いと思われがちです。しかし、家康の政治活動は主に秀吉が築いた伏見城と大坂城を行き交うことで、関ヶ原から大坂冬の陣・夏の陣へと豊臣家を打倒する足掛かりとしました。
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家康と秀吉の微妙な関係
大阪城天守閣の「上方の家康展」では、家康が信長の家臣となった後の軌跡を5の章に分けて関する史料が展示されています。
本能寺の変での信長の死から信長家臣団のパワーバランスは秀吉へと動き、家康が秀吉と対決した小牧長久手の戦いを経て、秀吉の臣下となった家康は家臣団の中でも影響力のある存在になりました。
秀吉が京都に築城した聚楽第では後陽成天皇を招き、公家や武家をも集めた盛典が開かれました。家康は秀吉から信長の次男織田信雄に次いでの地位が授けられました。家康は秀吉が最も信頼する家臣と言える立場になりました。
秀吉が聚楽第の次に築城した伏見城は、天下人の城として秀吉の政治の中心となりました。大陸への侵攻に息子秀頼の誕生と秀吉政権は混迷となりますが、秀吉は寿命が尽きたかの如く伏見城で亡くなります。
豊臣家の五大老となっていた家康は反豊臣家の行動を察知され、秀吉の遺言と反する行動を咎めようと前田利家が伏見にいた家康と会見し、利家は刀まで用意して差し違える覚悟で臨んだものの、その場は平穏に終わりました。
しかし、結局は家康は石田三成らの秀吉家臣団と戦うことになり、関ヶ原の戦いの前に家康不在の伏見城での戦闘で家康の家臣である鳥居元忠が戦死し、伏見城は落城します。
そして関ヶ原で家康の東軍・三成の西軍が激突し、三成の逃走により家康の勝利となりました。
関ヶ原の戦いの後、伊達政宗は家康の部下を通じて秀頼の身柄を伏見城か江戸城に移すように家康に提案します。しかし、この意見は黙殺され、秀頼は大坂城に居つづけることになります。
天下人への道のり
関ヶ原の戦いに勝利した家康は伏見城を再建しつつ居城としました。伏見城にて征夷大将軍を受け江戸幕府を開き、徳川家の支配を強めていきました。
家康は二条城を築城し、秀頼の上洛を求めます。徳川家と豊臣家の関係が危うくなる中、秀吉が造営し秀頼が再建した京都の大仏があった方広寺で、開眼供養の際に寺の鐘に刻まれた鐘銘の文言に、家康が秀頼に文句をつけた方広寺鐘銘事件が勃発します。
こうして徳川家と豊臣家の直接対決となった大坂城での冬の陣が始まりました。この時には豊臣側につく武将は少なく、家康有利に動きました。
冬の陣で一旦停戦となりましたが、翌年再び大坂城で夏の陣が行われ、秀頼の自決により豊臣家は滅びました。
夏の陣の後の家康は駿府城に入り、ここで没します。死後は東照大権現となり神様として崇められるようになりました。
従来からの家康の見方だと棚ぼた的に天下人となったという印象が強いのですが、豊臣側との確執を隠しながらも不穏な動きを察する周りの武将たちの心配する動向をよそに、したたかな戦略の末に天下を手にした家康の考えがわかる展示でした。