秀吉と家康、二人の出生の地を巡りながら、伏見城の歴史的意義を考える
京都市にあった城といえば二条城が有名ですが、城郭が残されていない城が他にもあり、それは豊臣秀吉が築いた城で聚楽第・伏見城・向島城・京都新城の三つが挙げられます。
特に伏見城は秀吉がそこで亡くなった城であり、徳川家康が江戸幕府を作り上げる政治の拠点として重要な城でした。
秀吉・家康の二人の出生地や戦いの地を訪ねながら、伏見城の意義を考えてみたいと思います。
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秀吉の出生地、名古屋市中村区
秀吉の出生地とされるのは、名古屋駅から地下鉄東山線に乗って中村公園駅にある中村公園です。駅から降りると道路を跨いでそびえ立つ、高さ約24mもある巨大な鳥居の存在感が半端ないです。
これは中村公園にある秀吉を祀る豊臣神社の鳥居で、昭和5年元旦に竣工され当時は各地にある鳥居の中でも最も巨大でした。
中村公園へ向かう道には秀吉に仕えた武将の案内板があり、加藤清正は秀吉と同じ出生地で家が隣りであったことや、母が秀吉の母と従姉妹であったなど、秀吉と縁が強い人物でした。賤ヶ岳の戦いでは武勲を挙げ、朝鮮出兵でも戦いました。
蜂須賀正勝は秀吉よりも年上ながら最も信頼された武将の一人。小六と名乗って盗賊をしていた頃に幼き日の秀吉と出会ったと言われる逸話が生まれるほどだった。
秀吉の異父弟だったのが豊臣秀長です。秀吉よりも人格者だったようですが、病により倒れ子孫も絶えてしまい、豊臣の血筋は無くなってしまいました。
豊臣神社は各地にありますが、この神社は明治18年の創建で近代にできました。また清正公も祀っており、秀吉を愛する参拝者が多いそうです。
公園内にある名古屋市秀吉清正記念館は、秀吉と清正を中心に戦国時代の資料展示がされています。
秀吉は天文6年の元旦に今の中村区で産まれたとされます。武将の血筋ではない農民の身分だった秀吉が信長と出会い臣下になったのは諸説がありますが、信長の出身地であるとされる勝幡城址とは10km程度なので、出会いのきっかけは何かしらの伝手があったのもしれません。
戦国時代は各地を治める武将が互いに戦い、または協力したりと戦局が目まぐるしく変わりました。そんな時代に信長は各地の戦略を臣下に命じ攻略していきました。
信長の秀吉への命令は、秀吉の戦略の旨さもあり、信頼を得て信長から長浜城を受けます。秀吉は信長家臣の中で一歩抜きん出た存在になりつつありました。
家康の出身地、岡崎
家康は今の愛知県岡崎市に城を構えていた松平氏の家系に生まれました。松平元康と名乗り、幼少の頃は信長の父の織田信秀や今川義元の人質として岡崎から離れて過ごしていました。
岡崎駅前には巨大な徳川家康があります。まさに神君出生の地を象徴する像でしょう。
岡崎城に行くまでの間には家康に仕えた四天王の像が並んでいます。
戦国時代最強の武将と言われる本多忠勝。家康と同じ岡崎に生まれ、本多氏は代々松平家に仕えてました。
酒井忠次は家康と同じく岡崎に生まれ、15歳年下の家康の人質時代から仕えていました。家老となって東三河を統治し、小牧・長久手の戦いまでの家康の戦いに全て参加しています。
現在の豊田市に生まれた榊原康政は、家康の小姓として仕え、三河一向一揆で初陣をして家康から康の字を貰いました。秀吉と対立した小牧・長久手の戦いでは、山崎の合戦後の秀吉の行動を非難する檄文を書き、秀吉を激怒させたとされます。
井伊直政は浜松に生まれ、井伊家は今川氏の家臣でありましたが、桶狭間の戦いで今川氏が滅ぶと養母直虎の計らいで、家康に仕えるようになります。
これら四天王は関ヶ原の戦いまで家康の戦いに参加しましたが、4人とも揃ったのは小牧・長久手の戦いでした。
岡崎城跡は公園になっており、入り口には大河ドラマ「どうする家康」の案内が大きい案内板でアピールしています。
岡崎城は西郷頼嗣が明大寺に城を築き、家康の祖父の松平清康が今の地に移しました。
桶狭間の戦いで今川氏が織田氏に滅ぼされると家康は武将として独立し、岡崎城を居城にして戦国時代を戦うことになります。浜松城に移ってからは家康の息子の信康が城主となりました。信康が自刃してから秀吉の家臣の田中吉政家が治め、江戸時代からは本多康重ら本多家の血筋が城主を務めました。
家康出生の地として、岡崎城は「神君出生の城」として崇められました。
岡崎城は2023年1月にリニューアルされて、展示品も新しくなりました。岡崎城の成り立ちや、岡崎の城下町の解説など神君の街としての成り立ちが分かる内容になっています。
岡崎城は明治に入り城の大部分は壊され、一部の堀や石垣が残るだけでした。しかし、地元住民の熱意から昭和34年に天守が再興され、街のシンボルとなりました。
岡崎公園内には「どうする家康」の大河ドラマ館が併設されています。ちなみにドラマ館は岡崎の他に浜松と静岡にもあります。
展示は大河ドラマの設定から家康の生い立ちに関ヶ原の戦いの解説ジオラマなど盛りだくさんで、非常に見応えがありました。
岡崎での徳川家と縁があるもう一つの場所が大樹寺になります。
家康の最大の転機は永禄3年5月19日、19歳の時に信長と義元が戦う桶狭間の戦で、義元が信長に敗れると義元の臣下だった家康は身を案じ松平家の菩提寺である大樹寺に逃げます。
大樹寺の松平家の先祖の墓前で自決しようとする家康に、寺の住職の登誉上人が「厭離穢土、欣求浄土(おん(えん)りえど、ごんぐじょうど)」の言葉をかけ、戦国時代の乱世を止め、世の中を平和にするのがお前の務めだとれました。この言葉により家康は自身の存在意義を悟り、家康の座右の銘となり、戦場で掲げられて戦国時代を戦い抜くことになります。
信長の死から、秀吉と家康が争う小牧・長久手の戦い
3人共に三河国の出身であってか、豊臣秀吉と徳川家康は織田信長の臣下として仕える事になります。信長の戦いは他の武将を圧倒する戦術で最も天下統一に近い武将でした。
しかし、天正10年6月に信長は有能な家臣である明智光秀に本能寺で討ち取られ秀吉と家康に動揺が走ります。
光秀が天下を取ったかに思われましたが、他の武将との協力関係が築けず、数日で光秀は秀吉に山崎で討ち取れます。
信長がいなくなると秀吉は天下統一を目指すようになり、信長の家臣の集まった清洲会議で秀吉が信長の孫を後継者に指名し影響力を強めます。天正11年の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家に勝利して信長の後を取る姿勢を強めました。
しかし、天正12年に秀吉と信長の次男である信雄との対立が深まります。3月に信雄の3人の家老が秀吉と内通していたとされ処刑されます。信雄は家康に呼びかけ、家康は浜松城から出陣します。
信雄が秀吉の城であった亀山城を攻撃して戦いが始まりました。信雄と家康が清洲城で合流し、戦局は激化していきます。信雄方の犬山城が秀吉方に攻略され、小牧山の争いでは家康方が勝利しました(羽黒の戦い)。秀吉は大坂を立って犬山城に入ることになります。
4月になると6日に秀吉方の三河別働隊の動きを家康方が察知し、小牧城から小幡城に入ります。9日の早朝から小幡城から家康軍が出陣し榊原康政らが秀吉軍に攻撃を開始します。秀吉側の家康への攻撃も開始されました(桧ヶ根の戦い)。
午後を回ると家康軍が秀吉軍の池田恒興・元助親子と森長可を討ち取ります(長久手の戦い)。不利となった秀吉は小幡城の北東にあった龍泉寺城に入り秀吉軍の救援に入ります。家康は戦いが治ると小牧城へと戻りました。
長久手市にある長久手市郷土資料室は長久手での戦いの解説があり、あまり知られていないこの戦いの経過が分かる内容でした。将来リニューアルされるそうです。
しかし戦いはこれだけでは収まらず、秀吉軍は信雄の城である伊勢松ヶ崎城、5月に加賀野井城・竹ヶ鼻城を攻め落とします。6月に蟹江城にも攻め込みますが、家康が出陣し城を奪い返します(蟹江合戦)。
秀吉は家康との戦いに勝てず、このままでは敗色が濃くなりましが、11月に秀吉と信雄の講和が実現し戦いは収束しました。翌天正13年に秀吉は根来衆や四国の長宗我部を攻撃し実行支配を強めます。7月に秀吉は関白に就き豊臣姓を天皇から賜り、惣無事令を発令して国内の武士の頂点に立ち、念願だった天下統一に近づいていきます。
しかし、家康とは停戦関係であったため、秀吉は家康に和睦を申し入れますが、家康は頑なに受諾しませんでした。天正14年5月に秀吉の妹の旭姫と家康が婚儀という名目で人質を送り、上洛に応じない家康を動かすためさらに10月には病気の旭姫の見舞いとして秀吉の母、大政所なかを送ります。
家康はこれに応え秀吉が支配する大阪城に上洛し、臣従することにしました。
京都の支配を強めた秀吉は天正15年に京都に築城した聚楽第に入城し、天下人の名を国内に知らしめました。
秀吉の死と家康の反逆、二人が居た伏見城
秀吉の天下統一は着々と進み、九州を平定後は天正18年に関東の北条氏の戦いに勝利。この戦いで家康の活躍により北条氏の土地を秀吉から与えられますが、元の三河の領地は取り上げられました。
天正19年に甥だった秀次に関白の座を譲り、文禄元年に秀吉は伏見に隠居所を作ります。また、日本を手に入れた秀吉はさらに中国・朝鮮で戦うため、佐賀県の唐津に名護屋城を築きます。
秀吉と淀殿の間に秀頼が産まれると秀次を追い詰め自害させます。聚楽第を破却した秀吉は伏見の屋敷を新たな城として拡張しますが、文禄5年に慶長の大地震が起き伏見城は倒壊します。しかし、秀吉は近くの伏見山に新たな伏見城を築きます。
また、大陸進出の戦いは一度は講和を申し込むも決裂し、再び戦いが起こりました。秀吉の政策が混迷になり、大陸の戦いが泥沼化していきました。
そして、慶長3年に秀吉は伏見城にて63歳で死去しました。
秀吉の死後は大陸の兵は引き上げられ、豊臣家の政治を司る五大老の一人として家康は伏見城で政策の指揮をすることになります。しかし、幼い秀頼の豊臣家からの意向に従わない、家康の行動に反発する石田三成らの家臣団と戦うことになります。
慶長5年8月に伏見城へ攻め込んだ三成の西軍により城は焼失、家康の臣下である鳥居元忠が戦死します。
9月15日早朝、家康の東軍と三成の西軍が激突する関ヶ原で天下分け目の合戦が行われ、1日の戦いで家康が勝利することになります。
慶長6年に家康は伏見城の再建を命じ、入城して徳川政権の拠点となります。慶長7年に伏見城の再建が開始され、また二条城を築城して京都の支配を強めています。慶長8年に伏見城で征夷大将軍を宣下をし、江戸幕府が成立することになります。
慶長10年に家康の息子秀忠が将軍宣下し、慶長12年に静岡の駿府城が改築されるまで、家康は伏見城を拠点にしながら徳川幕府の基盤を作りました。
慶長19年に方広寺事件を契機に徳川家と秀頼の豊臣家が戦う大坂冬の陣の戦いが行われました。停戦とはなったものの慶長20年に大坂夏の陣で戦いが再開され、秀頼と母淀殿の自決により豊臣家は滅亡します。焼失した大坂城は元和6年に秀忠によって再建されます。
天下泰平の世を築いた家康は元和2年4月17日に駿府城で亡くなりました。
元和9年に家康の孫の家光が伏見城で将軍宣下を受けました。家光は家康の神格化を進め、例えば岡崎は大樹寺から岡崎城が眺められるような街を作りました。
伏見城は二条城もあって存在意義を失い、元和5年頃には廃城が決まり、伏見城の櫓や門は徐々に他の城に移されるようになりました。
寛永2年に伏見城は完全に廃城となり、京都の防御の城は淀城が築城されました。伏見城の跡地の周りには桃の木が植えられ、桃山という地名がつけられるようになりました。
戦国時代を終わらせた家康の「厭離穢土、欣求浄土」の思いは、徳川家により江戸時代は260年間続くことになります。
秀吉と家康が城主となった伏見城の歴史
家康は信長の死後から秀吉との小牧・長久手の戦いで、秀吉に対して苦慮があったのが分かります。戦いは家康側有利でしたが、秀吉と信雄の講和したのでそれを無視して秀吉との対決姿勢をしていれば、両者の間で戦国期の戦いは続いていたでしょう。
天下をとった秀吉でしたが秀次の追放、大陸との戦いで家康の目には秀吉が戦いの権化に映ったのかもしれません。しかし、秀吉の生きている間は行動に移さず、無力な秀頼に向けられました。豊臣家の臣下を屈服させた関ヶ原の合戦の周到さ、大坂城の戦いで一度は停戦したものの堀などを埋める戦術の見事さは、他の武将を圧倒しました。
天下統一を成し遂げた秀吉と天下泰平を成し遂げた家康が城主を務めた伏見城は明治天皇の陵墓となり、城跡には立ち入れなくなりました。
関西財界人によって作られた模擬天守である伏見桃山城は、遊園地の廃止により建物は区民の希望により残されましたが、老朽化や耐震強度不足により現在は廃墟同然となりました。
戦国時代の終焉とともに廃城となった伏見城に、歴史的意義を感じ取ることができるのではないでしょうか。
年表
天正10年 | 1582 | 6月、本能寺の変で織田信長が明智光秀によって討たれる 羽柴(豊臣)秀吉らが山崎の合戦によって光秀を討つ |
天正11年 | 1583 | 秀吉、石山本願寺跡に大坂城を築城 |
天正12年 | 1582 | 秀吉対織田信雄・家康による小牧・長久手の戦い |
天正13年 | 1585 | 秀吉、豊臣姓を賜り関白になる |
天正14年 | 1586 | 秀吉、聚楽第を築城 太政大臣に就任 |
天正16年 | 1588 | 後陽成天皇が聚楽第行幸 |
天正18年 | 1590 | 秀吉が北条氏を滅亡し、江戸城に家康を移封させる 秀吉が奥州を平定、天下統一をする |
天正19年 | 1591 | 関白を甥の秀次に譲る |
文禄元 | 1592 | 文禄の役始まる 秀吉、伏見指月に新屋敷を造営する |
文禄2年 | 1593 | 8月、大坂城で秀頼が産まれる 9月、秀吉、指月城へ移る |
文禄3年 | 1594 | 3月、秀吉が指月城の拡張工事を始める 秀吉、家康の屋敷がある伏見の対岸の向島に向島城を築城 8月、城下町を造成する |
文禄4年 | 1595 | 7月、秀次自害、聚楽第を破却して伏見城に使う |
文禄5年 慶長元年 | 1596 | 7月、慶長の大地震により伏見城が倒壊 伏見山にて伏見城を再建する |
慶長2年 | 1597 | 1月、慶長の役が始まる 秀吉、京都新城を築城する 向島城が完成 5月、秀吉、秀頼と完成した伏見城に移る |
慶長3年 | 1598 | 8月、伏見城にて秀吉死去 秀頼の後継人を家康ら五奉行で務める |
慶長4年 | 1599 | 家康、向島城から伏見城に入る |
慶長5年 | 1600 | 8月、石田三成が伏見城を攻める、家康の家臣の鳥居元忠が死亡 9月、関ヶ原の戦いによって家康側の勝利 |
慶長6年 | 1601 | 伏見城の復旧工事を開始。家康が大坂城より移る |
慶長7年 | 1602 | 5月、家康が二条城を造営 |
慶長8年 | 1603 | 家康、征夷大将軍を伏見城で宣下を受ける |
慶長10年 | 1605 | 徳川秀忠、伏見城で将軍宣下を受ける |
慶長12年 | 1607 | 松平定勝、伏見城代になる |
慶長19年 | 1614 | 大坂冬の陣 |
慶長20年 | 1615 | 大坂夏の陣、秀頼・淀殿の自害により豊臣家滅亡 |
元和2年 | 1616 | 4月、家康が駿府城にて死去 |
元和9年 | 1623 | 徳川家光、伏見城にて将軍宣下を受ける 伏見城は廃城、淀城が造営される |
寛永2年 | 1626 | 淀城完成、伏見城の跡は幕府が管理する |
大正元年 | 1912 | 伏見城跡に明治天皇が伏見桃山陵に埋葬される |
大正3年 | 1914 | 昭憲皇太后を伏見桃山東陵に埋葬 |
昭和39年 | 1964 | 近鉄により伏見桃山城キャッスルランド開園 |
平成15年 | 2003 | キャッスルランド閉園 伏見区民の要望により、模擬天守は京都市に寄贈 |
参考文献
伏見城と淀城(京都市考古資料館)
THE 金箔瓦(京都市考古資料館)
天下人の城(京都市文化財ブックス第31集)
小牧・長久手の戦いと徳川四天王(長久手市)
岡崎城パンフレット
大樹寺パンフレット
名古屋市秀吉清正記念館パンフレット
豊国神社パンフレット
京都府文化財保護課サイト
一冊でわかる戦国時代(大石学・河出書房新社)