奈良から見た南山城の歴史を辿る、「聖地 南山城―奈良と京都を結ぶ祈りの至宝―」
奈良国立博物館にて9月3日まで特別展「聖地 南山城―奈良と京都を結ぶ祈りの至宝―」が開催されています。木津川市加茂にある浄瑠璃寺の国宝九体阿弥陀修理完成記念として行われており、南山城地域にある仏像といった文化財を一堂に集め、南山城の成り立ちに迫ります。
京都府の南部である南山城地域は、歴史を辿ると奈良の平城京が出来てから密接な関係が生まれ、険しい山岳地帯から仏教の地として発展する事になります。
天平12年(740)に聖武天皇が木津川市の旧加茂町へ恭仁京を遷都したものの、紫香楽宮に遷都が決まり4年で造営が中止されましたが、平城京から移築された大極殿は山城国分寺となり南山城の中心地となります。海住山寺といった寺院が建立され、そのため木津川市は京都府内で京都市についで国指定文化財を有する地域となりました。
平安時代に空海が密教を伝来するとさらに仏教の修行が盛んになり、木津川市の旧山城町の神童寺や和束町の金胎寺、笠置町の笠置寺は山岳修験の地となりました。
特に笠置寺は岩に掘られた巨大な磨崖仏による巨石信仰に、東大寺の大仏建立と深い関係があり奈良にとっては「聖地」と言える場所でした。
今回の展示の中心である110年ぶりに5ヵ年かけて修理が行われた、浄瑠璃寺の九体阿弥陀の内の最後に修理された2体が直近で見られます。そして右手の展示は浄瑠璃寺の三重塔に祀られている薬師如来と、明治時代まで寺にあった十二神将像が140年ぶりに集まり、浄瑠璃寺の姿が蘇ります。
鎌倉時代初頭に堕落した奈良の仏教界から離れ、再び仏教の戒律を求めた解脱上人こと貞慶が奈良の興福寺を離れ笠置寺に赴き、のちに海住山寺へと移りました。
笠置寺の梵鐘は南都焼き討ちで焼失した東大寺を復興した重源が奉納したとされ、貞慶と重源の仏教に対する思いが込められた梵鐘と言えるでしょう。
東大寺の大仏建立を行った行基は、木津川に泉大橋を架けるといった木津地域の発展との関わりがあります。
室町時代に一休さんのモデルになった一休宗純が住んだ京田辺市の一休寺こと酬恩庵。南山城地域は都から離れ、自分を見つめ直す地としてあり続けました。
永禄10年(1567)の三好・松永の兵火によって大仏殿などが焼失し、貞享元年(1684)に公慶上人によって再興されることになります。大仏殿に使われる柱が遠く宮崎県の白鳥神社から淀川を伝って木津に運ばれました。この時の絵には東大寺へ運ばれる材木を見に多くの人達が集まり、お祭り騒ぎのように伝わります。
南山城地域が奈良の仏教の聖地であり、京都と繋ぐ回廊として人々が行き交い、木津川によって様々な物資が運ばれました。今回の展示では都の喧騒を離れて自分を見つめ直す地として、訪ねてみたい南山城を感じました。
「聖地 南山城―奈良と京都を結ぶ祈りの至宝―」
場所 奈良国立博物館
会期 令和5年(2023)7月8日(土)~9月3日(日)
前期:7月8日(土)~8月6日(日)
後期:8月8日(火)~9月3日(日)