第34回・季節を彩る京都のお祭り
江戸時代の京都では葵祭や祇園祭以外にも季節毎の祭礼がそこかしこで行われ、賑やかな様相が都名所図会などに描かれている。
主だった祭礼は今も残り、京都には欠かせない年中行事となっている。
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春のお祭り
壬生狂言(壬生寺)
壬生寺で行われる壬生狂言は2月の節分とその前日、春の4月29日〜5月5日及び秋の10月のスポーツ(旧体育)の日の前の土日に開催される。
壬生狂言は壬生寺中興の祖である円覚上人が正安2年(1300年)に念仏の意味を理解してもらう事で始まったとされる。演目が開かれる大念仏堂は安政3年(1856年)の建築で、無言劇は約30の演目が継承されており、春の大念仏会では炮烙割りが行われる。
狂言は他にも嵯峨大念仏狂言(清涼寺)、千本えんま堂大念仏狂言(引接寺)がある。
梅花祭(北野天満宮)
毎月25日に行われる北野天満宮の天神さんで、2月は菅原道真の命日で梅花祭(梅花御供)として行われる。明治までは旧暦のため梅ではなく菜の花が咲く時期なので菜種御供として、菜の花や季節の野菜を供えていた。
やすらい祭(今宮神社)
4月の第2日曜日に行われる今宮神社のやすらい祭は、春に花が散ると疫病も飛び散るという伝えから、踊りで疫病を送るという。
江戸時代では3月10日に行われていた。鞍馬の火祭りと太秦の牛祭と並ぶ京都三大奇祭のうちの一つ。
5月5日には今宮神社から御旅所まで神輿が巡幸する今宮祭神幸祭も行われる。
松尾祭(松尾大社)
4月20日以降の日曜日に行われる松尾大社の松尾祭。神幸祭(おいで)では七社の神輿(一つは唐櫃)のうち4社が桂大橋の西岸から4基の神輿が神輿船に乗り渡御する。東岸で7社が集まった後、4つの神輿と唐櫃が七条御前の西七条御旅所へ、残りは西京極の三宮神社・衣手神社に駐輦されます。
帰りの還幸祭(おかえり)では7つが西寺跡に集まり祭典をし、朱雀御旅所を経て松尾橋を渡り戻ります。
稲荷祭(伏見稲荷大社)
平安時代中期から行われている伏見稲荷大社の神幸祭では、4月20日近くの日曜日に五基の神輿が西九条にある御旅所へ向かう。5月3日の還幸祭で東寺の僧侶から神供をいただき、氏子地域を回って戻る。
稲荷大社と東寺との関係は、東寺が造営の際に稲荷大社の助けを受けたとされ、東寺にとって稲荷大社は守護神にあたる。
松尾大社と稲荷大社は共に秦氏をルーツとする祭神で、平安時代造営の際に創建された東寺と西寺に両神社の神輿が巡幸するのは、秦氏の影響力の強さを思わせる。
賀茂競馬(上賀茂神社)
菖蒲の節句の5月5日に、上賀茂神社で二頭の馬を競わせる賀茂競馬が行われる。寛治7年(1093年)に内裏の女房達が賀茂神社と石清水八幡宮に分かれて菖蒲の根合わせを行い、左方側の賀茂社の根が長ったので勝ちとなり、それに因んで競馬を奉納することにした。
5月1日に馬の体調や早さを見て組み合わせを決める足汰式が行われる。当日の午前は菖蒲の根合わせを行い、午後からは競馬がとなる。現代は5番まで行われているが、行事が定着した中世には、費用を負担していた20の荘園に合わせて20番まで行われていた。
藤森祭(藤森神社)
5月5日に藤森神社で行われる藤森祭の駈馬神事は、馬に乗って字を書くや逆さ乗りや立ち乗り、ぶら下がりなどの曲芸を行う。江戸時代は武士によって行われていたが、明治に入り氏子に引き継がれた。他にも武者行列と伏見稲荷大社へ向かう神輿巡幸も行われる。
鞍馬竹伐り会式(鞍馬寺)
鞍馬寺で6月20日に行われる僧兵姿の人物が竹を斬る竹伐り会は、蓮華会の一環で行われる。
平安時代初期に峯延上人が、悪事をする雌雄2匹の蛇を法力で退治したことに由来する。神事で用いられる4本の竹は大蛇に見立てており、8名の法師が二組に分かれ、4本の竹を斬る速さで豊凶を占う。
夏のお祭り
七夕
多くの神社では七夕のおまつりが行われる。江戸時代後期になると七夕は子供主体の行事となり、葉の形をした灯籠に二星の白抜き文字を書き、周りに提灯や笹に梶の葉を模した飾りをつけて周りに料紙で挟んだ梶の葉や提灯を飾り付ける。子供たちは6日に寺子屋の手習の師匠宅へ行き、夜になるとこれを鴨川に流す。
盆踊り
現代に行われる盆踊りは、応仁・文明の乱が収まり京都の風流踊りが起源とされる。盆踊りは当時の流行が取り入れられ、地域によって様々な趣向が凝られた。京都には江戸時代に流行った演目が今も残る。
六斎念仏
8月のお盆の時期に行事が行われる六斎念仏は、平安時代に空也上人が広めたとされ、毎月8・14・15・23・29・30日の斎日の事を指す。その日に悪鬼が人命を奪うとされ、戒めを守り念仏を唱えて神の加護を得ることする。また念仏を唱え鉦や太鼓で囃子して芸能を行い賑やかに行われる。
秋のお祭り
石清水祭(石清水八幡宮)
石清水祭は石清水八幡宮で9月14日の夕方から15日にかけて行われる。宇佐八幡宮で行われる放生会に習って貞観5年(863年)から行われいる。放生会とは生命の霊を慰めるため、魚や鳥を放って五穀豊穣を願う法会を行う。石清水八幡宮では八幡大神が山を降り、男山の麓の放生川に生き物を放つ。天暦2年(948年)年に勅祭となり葵祭と春日祭(奈良の春日大社)と並ぶ三勅祭の一つとなった。
行事は壮大で3基の御鳳輦に500人もの神人(じにん)と呼ばれるお供が夜中に山を降り、川で放生行事を行う。
応仁の乱で中絶したが、江戸時代には復興し、明治時代になって仲秋祭・男山祭から今の石清水祭へと名称が変わっている。
牛祭(広隆寺)
三大奇祭の一つ牛祭は10月10日に広隆寺で行われていたお祭り。夜に白い仮面をつけた摩多羅神が牛に乗り四天王と共に寺の周囲を一巡し、祖師堂前で祭文を読み上げると堂に入り、観衆はその面を厄除として奪い合う。
祭りの起源が色々と説があり、平安時代に恵心僧都源信が摩多羅神を勧請したとも、創建した秦氏を祀る大酒神社の祭りとも言われる。明治10年に一度中断したが、同20年には再び行われるようになった。
謎の多い祭ですが、近年に中止となっています。
冬のお祭り
をけら詣り(八坂神社)
大晦日から元旦にかけて行われる八坂神社のをけら参り。午後7時半から灯籠に火が灯され、その火を家に持ち帰り雑煮や神棚の灯火に使い一年の無病息災を願います。
灯籠には削り掛け(檜の削り屑)に参拝者の願い事を書いたおけら木と白朮(おけら)の根が焚かれる。キク科の多年草のおけらの根は焼くと匂いを発することから、邪気を払うとされている。
江戸時代は削り掛け神事と呼ばれ、元旦の朝4時ごろ行われおけら火の向きで豊作を占い、境内の火を消して参拝者同士で悪口を言い合い、それに勝ったものは吉兆を得ると言われていた。
上記以外でも様々な祭や行事が行われ、江戸時代に京都に来た旅人は毎日のように行われる祭に、驚いたという。今も平安時代から現代にかけて、人々のつながりによって伝承は脈々と受け継がれている。
※各説明文に関しては史料などを参考に、独自に考察しています(2022.10/3改訂)。
参考文献
京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ
京都・観光文化検定試験公式ガイドブック(淡交社)
フィールド・ミューアジム京都
各寺社の公式サイト・参拝のしおり・由緒書き
京都の祭り・行事(京都ふるさと伝統行事普及啓発実行委員会)
京の五節句(京都文化博物館)
今日の盆踊り(京都文化博物館)
京の祭り暦(小学館)