第29回・新たな政治の城下町、伏見の誕生(1591〜1598年)

豊臣秀吉は天下統一を果たすべく天正13年(1585年)の紀州と長宗我部が支配する四国を、天正15年(1587年)に九州の島津氏に、天正18年(1590年)に小田原の北条氏を攻め国内を平定しました。朝鮮攻略の文禄の役をはじめ、大陸支配にまで乗り出そうとしていました。

秀吉はまさに世界の覇者になるかの勢いでした。

巨大城下町となる伏見

伏見は都の南に位置する宇治川と巨椋池に面する土地です。藤原頼道の子、橘俊綱が伏見山荘を造営する、風光明媚な場所でした。

指月伏見城(伏見区桃山町泰長老)

拾遺都名所図会第5巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第5巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

秀吉は天正19年(1591年)に関白の座を秀次に譲ると、翌年の文禄元年(1592年)に伏見の指月の丘に隠居屋敷を建てます。次の年には伏見(指月)城はできますが、淀君の間にできた秀頼の誕生により、本格的な城郭とする事にし、淀城を破却して資材を転用します。

瑞泉寺(中京区木屋町通三条下ル石屋町)

都名所図会第1巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

秀吉は秀頼の誕生により、秀次を跡目としていた秀次を弾圧します。文禄4年(1595年)に追い詰められた秀次はに高野山で自害し、一族は処刑され塚が三条大橋の袂に作られました。後に秀次一族を弔うために瑞泉寺が創建されました。

秀吉が政治の中心とする首都伏見

伏見

秀吉は伏見を新たな政治拠点とするべく、都の中心以上に大改造を行います。

都名所図会第5巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
都名所図会第5巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
拾遺都名所図会第5巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

秀吉は城下町を作るため周辺へ住民の立退や寺社の移動を命じ、一帯は城下町として改造されていきました。大規模な土木工事が行われ、秀吉の家来となった武家が全国から集まり、武家屋敷が形成されました。

港湾施設が作られ、淀川から来る船の船付き場となりました。

巨椋堤

拾遺都名所図会第5巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

淀堤

拾遺都名所図会第5巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

指月と呼ばれる丘の南側に流れる宇治川と淀川に御土居と同じような土塁を築き、河川の流れを変え巨椋池(大池)の様変わりしました。

川に沿って作られ、巨椋池をも分断する堤は、その上を人が行き来ができる街道となりました。

指月・豊後橋・太閤堤・向島城(伏見区)

拾遺都名所図会第5巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
拾遺都名所図会第5巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

豊後橋から巨椋堤へ通る奈良へ向かう大和街道に、大坂城へ繋がる淀堤で大阪に向かう京(大坂)街道、伏見は堤を造成することにより奈良と大坂という二つの都市をつなぐ拠点となりました。

宇治川を跨ぐ豊後橋(現在の観月橋)は、向島から奈良へ行き来させるべく宇治橋を移築させるほどでした。

対岸となった向島には城が作られ、家康の居城としても扱われました。

中書島(伏見区)

拾遺都名所図会第5巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

伏見には港が作られ、物流拠点として街が形成された。中書島は港湾の入口として機能し中書島は歓楽街として栄えるようになりました。

京橋(伏見区)

拾遺都名所図会第5巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第5巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

大坂の京橋のように伏見にも京橋と名付けれた橋が作られました。伏見の中心となった京橋には淀川・宇治川・木津川からの船が多数集まり、多くの人々が行き交う京都の港湾都市となりました。

横大路・鳥羽(伏見区)

都名所図会第4巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
都名所図会第4巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

また横大路にも港と魚市場が作られ、ここから京都の名物の鱧が洛中へと運ばれるようになりました。

竹田(伏見区)

拾遺都名所図会第5巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
拾遺都名所図会第5巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

また新たな街道として竹田街道が作られ牛車が往来します。物流の街道となる鳥羽・竹田と、人が通る伏見稲荷の前を通る京(大坂)街道が整備され、都と伏見の往来が盛んになりました。
江戸時代には竹田・鳥羽街道と大津〜三条の東海道に車石が引かれ、荷物が活発に運ばれました。

大地震から復興した新たな城

伏見城と墨染(伏見区)

文禄5年(1596年)都を襲った大地震により指月に作られた城は崩壊、開眼供養をする前の東山の大仏も倒壊しました。

都名所図会第5巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
都名所図会第5巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

この慶長の秀吉は屈せず、すぐに伏見山に城の再建を始め、さらに大きな城へと変貌しました。慶長2年(1597年)に完成し、秀吉の政治の中心となる伏見城ができました。

八科峠(伏見区大亀谷敦賀町)

拾遺都名所図会第5巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

城を新たに作る際に街道筋の変更を行い、木幡山頂の木幡の関の位置を変え八科峠へと変えられました。理由は峠から城を見下ろさないように、という政治配慮でした。

御香宮神社(伏見区御香宮門前町)

都名所図会第5巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
都名所図会第5巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

どんな病も治る水が湧き清和天皇が御香宮と名付けて貞観4年(862年)できたといわれる。秀吉により伏見城の鬼門を守るため、御香宮神社が八科峠近くの大亀谷に移されました。後に家康により戻りましたが、跡の地は古御幸と呼ばれるようになりました。

墨染桜(伏見区墨染町)

拾遺都名所図会第5巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

死んだ藤原基経に対して上野峯雄の哀悼歌を読んだ際、桜が墨色に染まった墨染桜の逸話に感銘した秀吉が寺領を寄進して再興した墨染寺。長谷川等伯による秀吉の書影や秀吉の和歌もあり繋がりが深い。

耳塚(東山区茶屋町)

都名所図会第3巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
拾遺都名所図会第1巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

慶長元年(1596年)秀吉は再び朝鮮出兵を開始する。向こうの地で手柄として兵士の首の代わりに耳を削いで持ち帰ります。そうした敵兵の供養として慶長2年(1597年)に大法要が営まれ、供養塔として耳塚ができました。

獄門寺は供養の際に法要を行なったと思われる寺院。

醍醐の花見(伏見区醍醐東大路町)

拾遺都名所図会第2巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

慶長3年(1598年)、秀吉は醍醐寺で大花見大会を行い、続いて醍醐寺の三宝院庭園を完成させ、権力の大きさを見せつけた。

しかし、秀吉の命は尽きようとしていました。

※各説明文に関しては史料などを参考に、独自に考察しています(2023.4/7)

参考文献
京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ
京都・観光文化検定試験公式ガイドブック(淡交社)
フィールド・ミューアジム京都
各寺社の公式サイト・参拝のしおり・由緒書き
京都市伏見区役所WEBサイト
一冊でわかる戦国時代(河出書房新社)
伏見城と淀城(京都市考古資料館)
天下人の城(京都市文化財ブックス)
明治の橋(京都市文化財ブックス)
京都府中世城館跡調査