第25回・足利義満の室町幕府の黄金期(1368〜1408年頃)
室町幕府にとって足利尊氏と後醍醐天皇との確執によって、天皇家が二つに分かれた南北朝時代は、是が非でも統一をしなくてはいけない課題であった。貞治6年(1368年)、二代目将軍の足利義詮が死亡したことによりその子である義満が10歳で三代目将軍に就き、補佐として細川頼之が就いた。しかし、細川の政略は強引なところが多く、他の大名との衝突が起きるようになる。
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義満と文化
新熊野神社(東山区今熊野椥ノ森町)
応安7年(1374年)、この新熊野神社にて観阿弥・世阿弥親子の猿楽を義満が鑑賞し、気に入られて幕府によって発展したとされる。義満が文化に対して理解があった逸話として伝えられる。
義満の象徴、花の御所
金龍水(上京区今出川室町)
永和4年(1378年)、義満が政治の場とした室町殿は現在の烏丸今出川通りと室町通周辺に作られた。邸宅は室町幕府の名の由来となり、「花の御所」とも呼ばれ、金銀の珠が散りばめられ鴨川から水を引き「百花千草」が咲き誇る庭園があった。
金龍水は花の御所の近くにあり、茶の湯に使う水として遠くからも汲みにくるほどの、都の名水として名が知れ渡って、義満も茶湯の際に愛飲したと言われる。
相国寺(上京区今出川通烏丸東入)
康暦元年(1379年)、義満に仕えていた細川頼之が失脚し斯波義将が政権を補佐する康暦の政変が起きた。
これにより義満の政治手腕が反映されるようになる。
至徳元年(1384年)花の御所の北東に義満の発願によって相国寺が建立された、続く応永6年(1399年)に高さ約109メートルと伝えられる七重塔が建てられ、応永8年(1401年)に南禅寺を五山乃上として、相国寺を京都五山の第一位とした。
しかし、相国寺の大塔は応永10年(1403年)にわずか四年で落雷により焼失した。また義満の死後、応永17年(1410年)に天龍寺が第一位に戻り、第二位となった
大徳寺(北区紫野大徳寺町)
正和4年(1315年)に大燈国師(宗峰妙超)が赤松則村の帰依を受けて紫野に小庵を建てたのが始まり。建武元年(1334年)に後醍醐天皇から五山之上とされた大徳寺は拡大した。しかし室町幕府の意向により五山から外されその下の十刹とされ、不服とした大徳寺は永享3年(1431年)に五山制度から脱した。
義満の政権掌握
内野(上京区小山町)
内野は平安京が作られた際に内裏があった場所。平安時代には宴の松原という、内裏の使用するための用地があった。時代と共に天皇の御所は場所を変え、この時代には広大な空き地となった。
明徳1年(1390年)、義満は有力大名の山名氏の勢力を削減するため、山名氏清・満幸に同じ一族の時熙・氏幸に討伐を命じた。しかし義満は討伐した時熙・氏幸を赦免し変わって満幸を没落させた。これは山名一族内部を混乱させる手段だったが、氏清・満幸は義満に不満を持ち戦いを仕掛けた。
明徳2年(1391年)12月に都の中心の西側である内野で義満軍がと山名軍が激突した。両者一進一退の攻防が続き、最後に義満自ら出陣し山名氏を退けた。この明徳の乱によって義満は武士たちに文武両道の才を見せつけた。
内裏(上京区京都御苑)
明徳3年(1392年)に南北朝の統一を果たした義満は、天皇の住まいである御所を現在の御所のある場所とし、江戸時代まで続く事となった。
義満の栄華
金閣寺(北区金閣寺町)
金閣寺は俗称で正式名称は鹿苑寺。応永元年(1394年)に義満は出家して将軍職を息子の義持に譲り 応永4年(1397年)に北山にあった西園寺家の別荘を譲り受け、北山殿を造営しここを新たな拠点とした。相国寺に建てられた大塔が、北山殿にも建てられたとされる。
応永15年(1408年)に義満の死後、義持により夢窓疎石に開山させ、舎利殿こと金閣を中心に禅寺となった。
義満の生存した期間は猿楽といった芸能、公家と武家の文化が融合した北山文化、日明貿易など室町時代が最も繁栄した時代となった。しかし義満の死後の室町幕府は周囲の勢力により政局は安定せず、6代将軍義教が赤松満祐に殺害される嘉吉の乱が起き、応仁・文明の乱が勃発することとなる。
焼失した金閣寺
室町時代の創建から残っていた金閣は、昭和25年(1950年)に放火により焼失し5年後に再建された。
京都の寺社は近年でも火災によって焼失している、金閣寺はその象徴と言えよう。
参考文献
京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ
京都・観光文化検定試験公式ガイドブック(淡交社)
フィールド・ミューアジム京都
各寺社の公式サイト・参拝のしおり・由緒書き
足利義満と京都(吉川弘文館)
※各説明文に関しては史料などを参考に、独自に考察しています(2021.5/23改訂)