坂本で明智光秀の足跡を辿る

大河ドラマ「麒麟がくる」で明智光秀生存説で終了し、光秀の痕跡を探す話題が続いています。光秀は晩年に近い年齢で史実に登場し、都の周辺国となる近江や丹波を統治するなど、有能な武将だったため各地域には多くの逸話が残っています。
滋賀県の坂本は光秀が坂本城を築城し、名実ともに有力武将になった場所であります。その痕跡を辿ってみましょう。

大津市歴史博物館「明智光秀と戦国時代の大津」

坂本城とは?

琵琶湖の西側に位置する坂本は、比叡山に近く僧兵を従えていた延暦寺を攻める拠点でした。光秀は織田信長から坂本城ができる前にあった山側にあった宇佐山城を任されました。元亀2年(1571年)に信長の比叡山焼き討ち際し光秀は貢献し、翌年に坂本を任され宇佐山城を廃城して新たに城を築き、坂本城城主となって坂本は明智家の拠点となります。

大津市歴史博物館「明智光秀と戦国時代の大津」

大津市歴史博物館「明智光秀と戦国時代の大津」展で展示されていた坂本城跡の解説図。本丸が琵琶湖に飛び出す水上の城にふさわしい作りです。発掘作業も行われましたが、規模など謎の多い城跡です。

坂本城跡

坂本城跡は現在私有地となっており、「麒麟がくる」に合わせて特別に敷地内に入れるようになっていました。1994年の琵琶湖大渇水により、解説板の前に見える湖岸の水が引き、石垣が現れました。実際に湖岸に築城されたと分かりました。
琵琶湖が一望できる城内で、文化人としてお茶や歌を嗜んでいた光秀は、たびたび坂本城に人を呼び茶会を催していたようです。

坂本城址公園

坂本城跡の南側に坂本城址公園があり、光秀像が飾られています。
元亀4(1573年)の槙島城での足利義昭の追放、志賀郡の平定から天正3年(1575年)の丹波攻めを開始し、亀山城築城や各地での転戦が続き、坂本城にいる機会は少なかったようです。

坂本城址公園の碑

天正10年(1582年)6月、本能寺の変の前に坂本城から亀山城に移動した光秀は、愛宕山で運命を占い信長を討つ事になります。

山崎の合戦後の坂本城

浜大津にある明智左馬之助湖水渡りの碑

本能寺の変で信長を討った光秀は、山崎の合戦で秀吉らの軍に敗れます。その際に山崎の合戦で光秀の敗北を知った明智左馬之助こと明智秀満が安土城から坂本城に戻る際に唐崎で秀吉軍に出会い、湖水に入って坂本城まで逃れた「明智左馬之助湖の水渡り」の伝承は有名です。実際に渡ったかわかりませんが、秀満は到着した坂本城は秀吉軍により落城し、秀満は城と共に命を落としました。
こうして光秀の坂本城は姿を消しました。

坂本城跡碑

坂本城はその後秀吉に再建されますが、天正14年に廃城となり城は大津の浜大津付近に移され大津城となりました。関ヶ原の合戦の後に大津城は膳所に、天守閣は彦根城へと移ります。
こうして坂本には城の痕跡は無くなりました。この碑から北東にある聖衆来迎寺の門は、坂本城の遺構とされています。

いまだに残る光秀の残像

明智塚

小栗栖で落武者狩りに遭い命を落としたとされる光秀を供養する塚は京都や亀岡・宮津にもありますが、坂本にも光秀が所有していたと言われている名刀郷義弘を埋めたとされる塚があり、墓ととも言われています。

西教寺・明智家の墓

坂本城跡の北西にある西教寺は明智家の菩提寺で、光秀一族の墓があります。妻の煕子の墓や光秀が所有した硯箱があり、光秀と最も所縁が深い寺です。

盛安寺太鼓

坂本の盛安寺には光秀の陣太鼓とされる太鼓が伝わっています。光秀が討たれた翌年に寄進されています。
坂本にも光秀の痕跡が多く残ります。光秀の謎を追うのはまだまだ終わりは無さそうです。

参考文献
明智光秀と戦国時代の大津(大津市歴史資料館)