第22回・鎌倉新仏教の成り立ち(1140〜1290年頃)
鎌倉時代に現れた新仏教の臨済宗の栄西・曹洞宗の道元・日蓮宗の日蓮・時宗の一遍は、法然・親鸞の様に天台宗を修行した。
それぞれのの宗祖は混沌とした時代に仏道のは何かを問いかけ、民衆への布教や正治などに関わっていく。
Table of Contents
臨済宗
栄西(1141〜1215)
永治元年(1141年)、栄西は備中国の神職の子供して産まれる。12歳の時に比叡山に入り修行し、28歳で宋に渡りその年に帰国した。47歳の時に再び宋に渡りインドへ向かうが、民族情勢が不安定になり行けなかった。代わりに禅を学び4年後に帰国した。九州北部を拠点を布教し、京都で禅宗の布教が禁止されると、博多に聖福寺を創建した。
その後は鎌倉幕府の信任をとり、建仁寺を創建しに臨済宗の布教を広めた。
宋から持ち帰った茶の文化は一般社会に広まり茶道が確立し、茶書「喫茶養生記」を記し、栄西は茶祖と称された。
健保3年(1215年)に没した。
建仁寺(東山区大和大路通四条下る小松町)
栄西は建仁寺は建仁2年(1202年)に創建した。禅宗の寺として曹洞宗の道元もここで修行する。
かつて六条河原院に大きな鐘があり、その鐘は鴨川で七条の南へと流され、そこは鐘ケ淵と呼ばれた。栄西は官司に頼みに鐘の引き揚げを試みた。力者が引き上げようとしてもなかなか上がらなかったが、栄西が掛け声をかけるとたやすく引き揚げられた。建仁寺の陀羅尼の鐘がその鐘だという。
高山寺(右京区梅ヶ畑栂尾町)
明恵上人開基の高山寺には、栄西から授かったとされる茶の実を植えたとされる「日本最古の茶園」がある。
曹洞宗
道元(1200〜1253)
正治2年(1200年) に久我で産まれたとされる(木幡の説もある)。両親を亡くしたあと13歳で比叡山で出家する。建保2年(1214年)に建仁寺に入り、栄西の弟子である明全の元で修行した。貞応2年(1223年)に宋に渡り禅を学び、安貞元年(1227年)に帰国する
寛喜2年(1230年)に深草に住み、3年後の寛元元年(1243年)に興聖寺を創建し曹洞宗の道場とする。しかし天台宗の迫害から越前に移り寛元4年(1246年)永平寺を創建する。布教活動を精力的にしていたがね建長5年(1253年)に療養していた京都で亡くなる。
興聖寺(宇治市宇治山田)
道元が初めて開いた興聖寺は、深草の地に創建されたと言われているが、正確な場所はわからない。
正保2年(1645年)に淀城藩主の永井尚政が、万安英種禅師に中興を請じ宇治に再興された。興聖寺には道元の像があり、再興されるまでは建仁寺にあった。その像は昔に道元の弟子である詮慧が、道元が荼毘に付されたとされる東山に永興庵を作り、そこに道元の像を祀った。しかし、寺は荒廃し道元の像は建仁寺へと移った。興聖寺が再興する際に像が移され、自分の寺へと帰ることができた。栄西と道元の結びつきを示す話である。
日蓮宗
日蓮(1222〜1282)
安房国(千葉県鴨川市)で貞応元年(1222年)に産まれた日蓮は、天台宗の安房清澄寺に入り嘉禎3年(1237年)に出家し、鎌倉から比叡山に遊学して高野山や四天王寺を訪れて修学した。
32歳で阿防国に戻った日蓮は、日蓮と名乗り法華経から「南無妙法蓮華経」のお題目を唱えるようになった。国を憂い布教活動をする日蓮は、法然の専修念仏を攻撃するといった過激な活動で度々他宗からの法難にあい、その際に片腕や弟子を失い、幕府からも危険人物として伊豆と佐渡へ二度も流罪となった。
しかし、日蓮は挫けずに文応元年(1260年)に国の在り方を提言した「立正安国論」を幕府に提出した。そこには他国からの侵略や国の反乱を予言しており、実際に文永9年(1272年)北条氏一門で起こった「二月騒動」での内紛、文永11年(1274年)に「元寇の来襲」が起き、日蓮は予言を的中させた。
佐渡の流罪から文永11年(1274年)に鎌倉に戻り、久遠寺を開山する。弘栄5年(1282年)に亡くなった。
妙顕寺(上京区妙顕寺前町)
日蓮の死後、弟子の日像が京都で初めて日蓮宗の寺院として元亨元年(1321年)に妙顕寺を創建した。後に後醍醐天皇の勅願により日蓮宗の布教の基盤となった。創建した場所(四条大宮?)から移転を繰り返し、豊臣秀吉の命により現在の地となった。
本圀寺(山科区御陵大岩)
日蓮が鎌倉で暮らした法華堂を後醍醐天皇が根本道場とし、貞和元年(1345年)に光厳天皇の勅定により六条堀川に移転させた。巨大な伽藍を誇ったが、昭和44年(1969年)に山科へ移転され、元の地には石碑が残る。
時宗
一遍(1239〜1289)
伊予国で生まれた一遍は武家の子に生まれた。一遍の家は武士の家で、承久の乱で後鳥羽上皇側についたものの鎌倉幕府に敗北し、一族流罪の憂き目に会う。承久の乱から18年後に生まれた一遍は、10歳で母を亡くし父の勧めで天台宗の寺院・経教寺で出家し、九州の太宰府にて真言宗の法然の孫弟子達の元で修行した。
1263年(弘長3年)に父が死ぬと伊予に帰って還俗し武士に戻って妻帯するなどしたが、輪鼓という駒を見て輪廻から脱する方法を考え再出家を思い立つ。1271(文永8年)に善光寺へ参り「二河白道」の図に感銘を受けて「十一不二頌」にまとめた。
伊予に戻り岩屋寺で念仏三昧を送り、文永11年(1274年)に一家家財を捨て身内の聖戒ら弟子ととも遊行へと旅立った。
途中聖戒と別れ熊野から信州へと念仏札を渡し踊り念仏をしながら、弘安7年(1284)に京都に入ると四条の釈迦堂に多くの人が集まり、さながら一遍ブームに沸いた。一遍はさらに各地を遊行し厳島神社にも行き、各地で一遍は歓迎された。
伊予に戻るが自らの死期を悟り、正応2年(1289年)播磨国の観音堂、現在の神戸市にある真光寺で亡くなった。
一遍の生涯は聖戒によって国宝「一遍聖絵」として伝えられた。一遍は自身の教義を残すことは望まなかったが、二祖と呼ばれる弟子の真教上人により、時宗が作られた。
染殿院(中京区新京極四条上る)
一遍が京都での踊り念仏を行った釈迦堂。空海開基とされ十住心院と呼ばれる。足利義満が時宗総本山金蓮寺に寄進したため真言宗から時宗になった。金蓮寺は北区に移転したため、坊塔となった。
歓喜光寺(山科区大宅奥山田)
聖戒が八幡で開いた善導寺が正安元年(1299年)に六条河原に移転の際に歓喜光寺となった。その後豊臣秀吉の名により四条に移転し錦天満宮と神仏習合となったが、明治40年(1907年)に歓喜光寺が東山五条にあった法国寺へと移転合併した。昭和50年(1975年)に山科へ再移転をした。最近まで一遍聖絵を所有していた。
参考文献
京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ
京都・観光文化検定試験公式ガイドブック(淡交社)
フィールド・ミューアジム京都
京都観光ナビ
各寺社の公式サイト・参拝のしおり・由緒書き
国宝一遍聖絵の全貌(高志書院)
日本の名僧(扶桑社)
比叡山延暦寺はなぜ6大宗派の開祖を生んだのか(KKベストセラーズ )
道元禅師ご遺蹟巡拝のしおり(曹洞宗近畿管区教化センター)
※各説明文に関しては史料などを参考に、独自に考察しています(2021.4/4改訂)。