第8回・地獄を行き交う小野篁と死者の世界(802〜853年)
小野篁(802~853年)は伝説によると、あの世とこの世を行き来する力を持ち、昼は宮中にて夜は地獄の閻魔法王に使えて仕事をしていたと言われる。文武両道で才能に長けたが奇行が多く、そのため嵯峨上皇の怒りを買い、隠岐に流罪になったこともあった。
京都で人が死後に閻魔法王の裁きで、生前における罪により地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道の六つの世界に輪廻転生をする死生観、死んだ祖先を招く風習や地蔵信仰は、小野篁に関わるものが多い。
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あの世とこの世を行き来する場所
鳥辺野(東山区五条橋東周辺)
鴨川に架かる松原橋を渡り東に行くと、平安時代このあたりは京都に三つあった風葬地の一つである、鳥辺野(とりべの)と呼ばれた墓場であった。
現代では六道の辻野の碑がある。ここはこの世とあの世の境とされてる場所と言われている。
六道珍皇寺(東山区松原大和大路東)
六道珍皇寺には冥土通いの井戸があり、冥界への入り口とされ小野篁はここから冥府へ通っていたとされる。この寺の建立には様々な由緒がある。
8月13日から16日の盂蘭盆(うらぼん)の前に行われる精霊迎え(六道まいり)は、小野篁が閻魔大王から授かった流儀である。この時期に閻魔堂が開かれ、参拝者は迎え鐘を叩く。
矢田寺(中京区三条寺町)
それに対して叩かれるのが矢田寺の送り鐘にとなる。
化野(右京区嵯峨周辺)
生の六道の碑(右京区嵯峨)
嵯峨には風葬地の一つ化野(あだしの)がある。ここも生と死の境とされる。
清涼寺横の薬師寺内に生の六道の碑がある。ここには福生寺という寺があって、明治時代の廃仏毀釈で廃寺となっている。
福生寺には小野篁が地獄で罪人の罪の身代わりをしている地蔵尊に会い、感激して地蔵尊を祀っていた。
小野篁は鳥部野の六道の辻から冥府へ行き、化野の福正寺あたりからこの世に戻ったとれる。
閻魔大王のいる場所
千本ゑんま堂/引接寺(上京区閻魔前町)
千本ゑんま堂の起源は、小野篁が朱雀大路の北端にあたる、風葬地の蓮台野(れんだいの)に向かう入り口に、閻魔法王の像を祀ったとされ、ここを精霊迎えの根本道場とした。その後に上覚上人によって引接寺として開山された。
夏の終わりの風習・六地蔵巡り
大善寺(伏見区桃山町西町)
六地蔵は小野篁が48歳の時に病に倒れ、地獄で苦しむ罪人を助ける地蔵菩薩に出会い、「罪によってあがなう地獄の苦しみを伝えるようにせよ」、と言われたことに感激し、この世に戻った小野篁は木幡山の一本の桜の木から六体の地蔵を彫り、木幡の里に安置し六地蔵(伏見区桃山)と呼ばれることとなった。
浄禅寺(南区上鳥羽岩ノ本)
深泥池(北区上賀茂)
後に後白河天皇が信仰した六地蔵を、保元2年(1157年)に平清盛に命じて、清盛から名を受けた西光法師によって都の街道の入り口にあたる六ヶ所に六角堂を建てて、六体の地蔵を一体づつ分置された。
大善寺(伏見区桃山)・浄禅寺(南区上鳥羽)・地蔵寺(西京区桂)・源光寺(右京区常盤)・徳林庵(山科区四ノ宮)、鞍馬口にあたる地蔵は明治初年まで深泥池(北区上賀茂)の辺りにあって、のちに上善寺(北区上善寺門前)に移された。
8月22〜3日に六ヶ所の地蔵を回る六地蔵巡りの起源となった。
死後も残る伝説
小野篁の墓(北区紫野)
小野篁は50歳で死去し、墓は雲林院の南に作られた。隣に紫式部の墓もある。
道風神社(北区杉坂)
鷹ヶ峰の西側に小野篁社が記されているが、現代では場所はわからない。小野一族の子孫で、三蹟の小野道風を祀る道風神社が杉坂にあるが、小野篁・道風を祀る神社は滋賀県大津市小野にもある。
参考文献
京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ
京都・観光文化検定試験公式ガイドブック(淡交社)
フィールド・ミューアジム京都
京都観光ナビ
各寺社の公式サイト・参拝のしおり・由緒書き
滋賀・びわ湖観光情報サイト
※各説明文に関しては史料などを参考に、独自に考察しています(2021.02/26改訂)。