第7回・嵯峨天皇が愛した嵯峨野(809年〜)
桓武天皇の崩御後、平城天皇が即位するが3年後に弟の嵯峨天皇に譲位する。しかし、平城上皇は藤原仲成・藤原薬子と共に平城京への遷都を企てる薬子の変(弘仁元年・810年)が失敗し、平安京が都として継続された。
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平安時代から愛される別荘地
京都の景勝地として長くから愛される嵯峨野は、北嵯峨にある大覚寺と清涼寺周辺をいう。
元は嵯峨天皇がこの地を気に入り、狩をしたりと文化活動の拠点とした。
平安時代には和歌に多く詠まれ、時代毎の文化人が訪れ、江戸時代には最もここに住みたいと思わせる場所となった。
それは嵯峨十景と呼ばれた。
嵯峨に造営された美しい離宮
大覚寺(右京区嵯峨)
嵯峨野は嵯峨天皇がこよなく愛した地域で、大覚寺は嵯峨天皇の離宮嵯峨院として作られ、のちに貞観18年(876年)に寺院として淳和天皇の皇子の恒寂法師が開山した。空海の勧めにより嵯峨天皇が書かれた、60年に一度開封される般若心経が奉安されている。
庭の大沢の池は嵯峨天皇が中国の洞庭湖を模した平安時代から残る日本最古の庭池である。華道・いけばな発祥の地でもある。
後の南北朝時代の南朝にあたる大覚寺統となった。
和歌が詠まれる最高の場所
広沢池(右京区嵯峨)
広沢の池は遍照寺(永祚元年・989年)の建立の際に造営された、または秦氏が開墾した際の溜池とも言われる。12月初旬に池の水を抜く鯉上げが行われる。
貴族たちも別荘地として嵯峨野に足繁く通い、その道は千代の古道として名付けられるほどだった。
野宮神社(右京区嵯峨)
大覚寺の後に清涼寺や下嵯峨の天龍寺といった寺院が建立され、歌道の歌枕に小倉山が入れられ、野々宮は源氏物語の舞台の一つとなった。
嵯峨天皇陵は薄葬により、都名所図会には書かれていない。明治時代に入り京都が一望できる山の上に整備された。
参考文献
京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ
京都・観光文化検定試験公式ガイドブック(淡交社)
フィールド・ミューアジム京都
京都観光Navi
右京天空遺跡マップ
各寺社の公式サイト・参拝のしおり・由緒書き
※各説明文に関しては史料などを参考に、独自に考察しています(2021.02/26改訂)。