第4回・語り継がれる羅城門、空海の東寺と守敏の西寺、禁苑の神泉苑(794年〜)

平安京は中国の長安城を参考に作られ、今までの都よりも大規模に造営された。条坊制で区割りされ、十数万人の人口を抱える国際都市だった。

中国に倣った都の作り

大極殿跡(中京区聚楽廻東町)

中国の長安城と同じく左右対称に街が作られ、北限の天皇の居る内裏から南を見て左京・右京となった。また東京を洛陽城、西京を長安城と呼ばれた。
そして南北に中心を貫く大通り、朱雀通が作られ、南限には入り口となる羅城門が、朱雀大路通りを左右に東寺と西寺、鴻臚館や市が作られた。大内裏の南には離宮・禁苑である神泉苑が作られた。東西に連なる通りが一条から九条通が作られ、規模は東西4.4km、南北5.2km、朱雀通は幅83mであった。
羅城門から今の旧千本通を北上し、三条大宮通り付近が大内裏に入る朱雀門だろうと言われている。
大内裏には四方三門づつ12の門が作られた。

拾遺都名所図会第1巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
拾遺都名所図会第1巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

大極殿は大内裏の中央にある高御座が置かれる最も重要な施設とされる。平安時代初期は今の千本丸太町通りの交差点付近にあったとされる。
交差点には案内板があり、北西側にある児童公園には石碑があるが、過去に定められた推定位置である。

平安京の入り口と都を護る東寺と西寺

羅城門跡(南区唐橋羅城門町)

拾遺都名所図会第1巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
都名所図会第1巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

羅城門は内裏に行く朱雀通(図会は千本通、現代の旧千本通)の外郭の九条通りに作られた。建物のとして高さの割に幅がなく、桓武天皇の指示で低く作るように言われるほどだった。弘仁7年(816年)で暴風で倒壊、天元3年(980年)にも倒壊し、その後は再建されなかった。門にあった毘沙門天は東寺に置かれるようになった。

東寺(南区九条町)

都名所図会第2巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第2巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第1巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

東寺の正式名称は教王護国寺といい、平安京造営の際に西寺とともに建立された。のちに空海に託され、真言宗の寺として運営されている。建立時と同じ位置にあり、建物は焼失と再建を繰り返しているが、平安京時代から残る寺院である。

西寺跡(南区唐橋西寺町)

都名所図会第4巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第4巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
拾遺都名所図会第4巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

西寺は東寺と左右反転させた配置の伽藍で作られ、守敏に託された。その後は天福元年(1233年)に焼失したのち再建されることはなかった。
後に松尾大社の神輿の例祭場所となった。西寺の鐘は東福寺に運ばれた。

平安京の祈祷場

神泉苑(中京区門前町)

都名所図会第1巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第1巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

神泉苑は祈雨といった祈祷が行われ、天長元年(824年)に日照り対して空海と守敏が祈雨を願う法力争いが行われた。守敏は効果がなく次に空海に託された。守敏はそれを妬み龍神を封じ込めたが、空海は北天竺の善女龍王が封じ込められていないのを知り、それを招いて雨を降らせた。のちに小野小町も祈雨を命じられた。
祇園会の始まりの場でもある神泉苑はその後荒廃したが、江戸時代に入り再興され(北部の敷地は二条城となった)、真言宗の霊場となった。

参考文献 
京都・観光文化検定試験公式ガイドブック(淡交社)
京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ
平安京(京都市文化財ブックス)フィールド・ミューアジム京都
京都観光ナビ
各寺社の公式サイト・参拝のしおり・由緒書き

※各説明文に関しては史料などを参考に、独自に考察しています(2021,02/16改訂)。